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Earl Hoyt Jr. 1911-2001 Ann Weber Hoyt 1922-2008

ホイットおじさんも、ホイットおばさんも亡くなってしまいました。憧れのEarl Hoyt Jr.、Ann Weber に初めて会ったのは、1976年の全米選手権でした。1982年の全米選手権まで、毎年顔を合わせていたのですが、クリスマスカードが来なくなって久しく、ふと思い出すことがあったのですが、やはり残念です。
彼らは Fred Bear、Howard Hill、Doug Easton、Pete Shepley らと並ぶ、アメリカのアーチェリーを築いてきた伝説のアーチャーです。

アーチェリー界における「最大の発明」は何だと思いますか?
テイクダウンボウでもカーボンリムでも、TFC でもありません。それは1960年代に、アメリカの Holless Wilbur Allen さんによって発明されました。そして1969年12月30日は、この世界最初の「滑車付きの弓」の基本特許(US3486495A)が成立した記念すべき日です。
人類の歴史とともに連綿と歩んできた弓の歴史に、新たなページが追加されたのです。そして我々が想像する以上のスピードで、この弓はアメリカ国内に拡散し、世界へと伝播されました。1972年には、Las Vegas ShootにUnlimited部門が創設され、発明から10年もせずに、リカーブボウとコンパウンドボウはその地位を逆転するのです。

アレンさんが商品化した、最初のオリジナル
コンパウンドボウです。

53年前、Allenさんの特許でコンパウンドボウを作ることが許されたのは、5つの会社でした。その時から現在までずっと作り続けているのは、「PSE」1社のみです。PSEの Pete Shepley は1970年、自分のアイデアを加え最初のコンパウンドボウをインディアナ州の試合で発表しました。そして1週間で彼は200の注文を受け、次の2週間で全米各地から700の注文を受けたのです。それが翌年の PSE 設立へとつながりました。
Allenさんの基本特許はとうの昔にオープンになっていますが、基本特許が公開された後、数々の新たな発明がなされ、周辺特許もぞくぞくと申請されたのです。そのため、現在でも最新のコンパウンドボウは、ほとんどすべてが周辺特許において保護されているという現実を知らなければなりません。新たなコンパウンドボウを作ろうとすれば、それがよほど斬新なアイデアでない限り、どこかの特許に抵触するでしょう。

ではホイットはというと、ホイットおじさんが Hoyt Company を設立したのは1942年です。そして数々の発明と栄冠を手に入れますが、アレンさんの5つの会社に Hoyt は入っていませんでした。そして1983年に、ホイットおじさんは「Hoyt」のブランドをEASTONに買収されます。真の Hoyt はここで終わりました。
彼の素晴らしさはここに書ききれませんが、彼の伝説として語られていたことが2つあります。
ひとつは、「プロ」を雇わなかったことです。確かにアマチュアリズムという言葉が厳格に存在した時代ではありましたが、彼が育てた多くの世界チャンピオンの誰一人も、Hoyt から金をもらってその弓を使っていたのではありません。みんなが彼の人柄と彼の作る弓を必要としていたのです。
もうひとつは「コンパウンドボウ」は作らなかったことです。ただしこれについては、1982年にホイットはリカーブモデルTD2のハンドルを使ったコンパウンドボウHunter Modelを初めて発表しています。しかしこの翌年、突然ホイットおじさんは Hoyt を手放したのです。
ホイットおじさんこと Earl Hoyt Jr. が考え、彼の手で作った数々の名器 「Hoyt」は、すべてリカーブボウの最高峰です。

1989年、ホイットおじさんとホイットおばさんは、新しいブランド「Sky」を立ち上げ、新たなアイデアを搭載したリカーブボウの製作に取り組みました。しかしみんな若くはありません。1999年、ホイットおじさんは心臓を患ったらしく、ホイットおばさんも年相応に足を痛めていました。そして2001年、ホイットおじさん亡き後、Sky はマシューズに売却されました。

新しい「Sky」のハンドルは、
HOYTがすでに「25インチ」ハンドルに移行した中で、
TD1 と同じ「24インチ」にこだわったのです。

ホイットおばさんこと、Ann Weber Hoyt はずっと彼と一緒でした。1971年にホイットおじさんと結婚。気の強いそれでいて、優しいホイットおばさんでした。ホイットおばさんは、1959年ストックホルム世界選手権優勝を筆頭に、6度の全米選手権制覇とフィールドでも世界と全米を制しています。これほどの偉大な女性アーチャーが他にいるでしょうか。1984年のロサンゼルスオリンピックでは、ジョン・ウィリアムスと共にコーチ、マネージャーとして金銀のメダルをアメリカにもたらし、その後も後進の育成やアーチェリーの普及に公私を問わず努めているのです。

「Hoyt」のブランドは永遠に続くでしょう。しかし1983年の前と後では違います。EASTONは矢においては世界最高のブランドです。しかし弓においてはまったくの無名で無知でした。弓のブランドを新たに立ち上げても、世界の頂点に立てる保証もなく、何十年の歳月が必要だったでしょう。だから世界最高のブランド、「Hoyt」を金で手に入れたのです。EASTON が欲しかったのは、その名前です。

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