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HOYT/EASTON

Hoytは、すでに「Record Holder」の名を手にしていました。日本が初めて参加した1967年Amersfoort世界選手権 Ray Rogers、1969年Valley Forge世界選手権 Hardy Ward、1971年York世界選手権 John Williams と伝説のアーチャーたちはすべて、木製ワンピースモデル ProMedalist 「4PM」「5PM」を使って、世界記録とともに、世界をリードし、1972年からは、テイクダウン「TD1」で世界の頂点に立ち続けてきました。
そんな「Hoyt」ブランドにも、大きな転機があったことを忘れてはなりません。1983年、Hoytはホイットおじさんの手を離れます。シャフトメーカーであるEASTONに買収され、「HOYT/EASTON」社となったのです。EASTONの「世界戦略」の第一歩です。今でも古い初期の「GM」ハンドルのサイド面には、この「HOYT/EASTON」の名残を見ることができます。

ところが数年でEASTONは再び、HOYTを別会社としました。社長のJim Eastonがとったこの戦略こそが、今のアーチェリーの世界を考える重要なポイントとなります。

ホイットおじさんの左が、若かりし日のジム・イーストンです。
彼も昨年2023年12月に亡くなってしまいました。

なぜ、世界最高峰の弓と矢のブランドを冠した「HOYT/EASTON」の名を捨てたのか。当時ヤマハがEASTON製アルミシャフトを輸入していた関係から、ライバル会社から矢を仕入れることへの抵抗感や販路拡大もあったのですが、Jim Easton の最大の目的は「ヤマハを潰さない」ことにあったのです。当時、年商3881億円のヤマハの中にあって、スキーやテニスを加えた、スポーツ部門が63億円。ヤマハ全対の1%にも満たないアーチェリー部門が「撤退」することを、何としても阻止したかったのです。
アーチェリーの世界にとって、ヤマハこそが不可欠の存在と考えたのです。1989年、FITA(世界アーチェリー連盟)の会長となったJim Eastonが、なぜスキーイングアーチェリーや3D、そして何よりもあれほど反発していたコンパウンドボウをターゲット部門の傘下に置き、将来的にはオリンピック競技にまで取り入れようとしたのか。それはリカーブボウの視点から見た、アーチェリー人口の低迷です。オリンピックでアーチェリー競技が陸上や水泳のように、毎回の大会で実施されるには、少なくとも世界100カ国以上で競技団体を持つことが条件となります。世界中の人間が、リカーブボウでアーチェリー競技を楽しまなければならないのです。
では、なぜヤマハがEASTONにとって、そして世界のアーチェリーにとって、必要な存在となるのか。それは、EASTON自身100%のシェアを求めながらも、その寡占状態が生み出す弊害と自らの限界を知っていたのです。ヤマハの力とパートナーシップこそが、アーチェリーを発展させ、世界に広げていく最良の方法と考えたのです。ヤマハほどの規模と資金力、そして何よりもアーチェリーに対する情熱とノウハウを持つ企業は、世界において他にはありませんでした。ところが2002年、EASTONが一番恐れていたことが、突然訪れました。「ヤマハがアーチェリーから完全撤退」したのです。それはHOYTとヤマハが切磋琢磨して築いてきた、スタンダードが消え失せる瞬間でした。1989-2005年までFITAの会長を務めるJim Eastonは、当初の目的達成のために、決断をします。「互換性」とともに、「韓国メーカー」を受け入れるのです。それまで、競技用には遥か及ばない弓を作るだけで、その製品もビジネス手法も受け入れるほど、EASTONも業界も寛大ではありませんでした。しかし一転することで、韓国製は低価格を武器に、一気にアーチェリービジネスに、なだれ込んできました。それだけではありません。この後、WA(世界アーチェリー連盟)は、1995年にコンパウンドボウ、2020年にはベアボウも傘下に収め、全種目にマッチ形式を導入、なりふり構わないルール変更によって、世界のどの国にも、勝てるチャンスとメダルを与えることで、アーチェリーを全世界に普及しようとしているのです。

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