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1969年(昭和44年)

第2話

1969年8月、琵琶湖北小松での同志社高校洋弓部の夏合宿です。高校からは中学にはない、新しく始められる運動部に入ろうと、フェンシングかアーチェリーと考えていたのですが、クラブ勧誘で先にアーチェリー部に行ってしまったのが、運の尽き。4月から始めたアーチェリーですが、これが持っている一番古い写真です。
親に「3年間はバイクに乗りません。3年間これでがんばります」からといって買ってもらった、Black Widow TF 66"-37#。高校2年の春には、Hoyt 4pmに替わり、秋には 5pmに替わっていました。
偶然ですが、このアーチェリーを始めた「1969年」には、アーチェリーの世界に大きな2つの出来事がありました。

1967年、第24回 アマースフォート世界選手権。
日本代表として和弓で初めて参加した、宮田純治 選手です。

実は当時、「日本アーチェリー協会」なる組織はあったのですが、実際には「全日本弓道連盟」がFITA(世界連盟)への加盟権を持ち、日本におけるアーチェリーを統括していました。洋弓は和弓の傘下だったのです。そんな中で、1964年の東京オリンピックでアーチェリーが正式種目として認められます。しかし実際にはエントリー数が少なく、アーチェリー競技の復活は1972年ミュンヘンまで先送りされます。
しかし、国内におけるアーチェリーの隆盛は双方に対立を生み、感情論にまで発展し、加盟権譲渡を洋弓が和弓に迫るなか話し合いがもたれ、1967年アマースフォート世界選手権で洋弓と和弓が直接対決することになります。当初、全日本弓道連盟はより多くの和弓選手の参加を望んだようですが、結局は1名の参加となり、それが宮田純治選手でした。しかし結果は、個人129名参加中、最下位の129位に終わります。
1969年は、「全日本アーチェリー連盟」が全日本弓道連盟から、FITA加盟権(現在のWA)を正式に譲渡され、洋弓が和弓の傘下から完全に独立したのが1969年です。

そしてこの年、世界では大変なことが起こっていました。1969年12月30日は、アメリカの Holless Wilbur Allen さんが発明した、世界最初の「滑車付きの弓」の基本特許(US3486495A)が成立した記念すべき日です。人類の歴史とともに、連綿と歩んできた弓の歴史に、新たなページが追加されたのです。そして我々が想像する以上のスピードで、この弓はアメリカ国内に拡散し、世界へと伝播されました。1972年には、Las Vegas ShootにUnlimited部門が創設され、発明から10年もせずに、リカーブボウとコンパウンドボウは、その地位を逆転することになります。

こんな記念すべき年に、アーチェリーを始めました。

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