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脱!同調圧力、「共感」が生む差別と分断への気づき

きたー同調圧力?

きたきた、同調圧力?
「ママ、大ちゃん明日注射打つって!ぼくは?」
「ぼくは打たないの?」
きたきた、「みんな一緒がぼくはいい!」の息子が、帰宅そうそう問い詰める。幼児期からずっと一緒にサッカーをしている仲間が、一人二人と打ち始めたようだ。人一倍仲間意識が高く、思春期真っただ中の息子がゆれる。
「そうね、まだちょっと考え中…」
「え~なんで~」

まだ、接種をしていない。まわりはどのように決断しているのか?前代未聞の非常事態だ、明確にYes/Noの理由を答えるのは難しい。決定にあたり、背中を押すものは何だろう。問題としたいのは、接種の是非ではない、最近なんとなく、同調圧力気味な過剰な「共感」に対してだ。

「共感」が、分断や差別を生む

テロ・紛争解決スペシャリスト永井陽右氏の著書『共感という病 いきすぎた同調圧力とどう向き合うべきか?』を読んだ。

大学院では平和学研究科に属していたこともあり構造的な暴力には、興味がある。別に斜に構えているわけではないが、必要以上に人を動かそうとする力には敏感だ。この本で学んだことは、大きく2つある。

ひとつは、「共感」は、社会と世界をよくするために間違いなく重要な要素である、としたうえで、ともすれば他者を排除する危険な思想にもなり得るという。

確かに、今の世の中、執拗に弱者がつくられているようにさえ感じる。かつて、平和学最初の授業で、美辞麗句で平和を語る私たちに、教授が一喝、「戦う平和学だ!」なんて言っていたのが腑に落ちる。

本文より
「共感の時代」と言われ、「共感」しあう空間のSNS、震災の「絆」、ラグビーの「ワンチーム」など、「共感」しあえた仲間が繋がりあって団結を強めくなか、一方で、仲間以外に対して排他的になったり、分断や差別が生じたりし得る

なるほど、だから、「共感」できないときや、仲間に入れないときに、孤独や生きづらさを感じるわけだ。それが大きな集団であればあるほど、団結力が強く過激な「共感」で繋がっていればいるほど、差別や分断が起きやすいのだ。自分たちがマジョリティ側だったり、評価を得られたりすれば、なおさら、対抗する意見を素直に受け入れにくいだろう。

さらに、声を上げることも多くなっている今、沈黙なんてしようものなら、「沈黙していることは肯定していることと同じだ」などと、無理に白黒はっきりさせられたりすることにもなる。

他者とわかりあうことはできない

ふたつめは、「他者とわかりあうことはできない」ということ

では、どうしたらよいか?

本文より
「一度、私たちは他者なんてものとわかりあうことはできない」としたうえで、その中で一体全体どうすれば良いかと考える。そのほうが、余計な問題がうまれにくく、真に地に足がついた話し合いや思考ができる。そもそも多様性とは、自分にとって都合の悪い人の存在を認めることであり、分かり合えない相手や部分について、その現実を直視することが大切だ。

多様性の時代と言われる現在、比較的よく耳にするのは、「まず一度、相手を受け入れることだ」とか、「共感することだ」と言われることが多い。本著はその逆、「受け入れることはできません」、「共感できません」からのスタートだ。そう自分のなかで、前置きするだけでも、少しだけ肩の力が抜ける。

夢中になって読んだら、あっという間、半日で読み終えた。この本から、過剰な「共感」が差別を生むことを知った。日常の、ちょっとした高揚感や優越感も、場合によっては、まわりとの分断を深めることもある。

昨今、「コミュニケーション障害」の若者が増えていると聞く。ただ、マジョリティ側の「共感」についていけないとか、自分のコミュニケーション能力不足してるという理由だけではない気がする。過剰な共感に合わせる必要はない。自分の気持ちに正直に自信をもってほしい。

もともとできないことをデフォルトにして、マイナス地点を出発点とするのなら、譲歩したり、妥協したり、歩み寄りよったりしてフラットになった地点が、多様性を受け入れるスタート地点になるのではないか。その先は、お互いの行先やその目的を確認しながら進めば、必要以上に強いることも圧を感じることもないだろう。そんな「共感できない」からはじめる人間関係もある。過剰な同調は避け、必要以上に人を動かそうとする力には注意したい。

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