消えた「日本人初のオスカー女優」
アジア初の受賞者
おととい、「アジア人初のエミー賞女優」イ・ユミについて書いていて、
「そういえば、日本人初のオスカー女優がいたな」
と思い出した。
1957年の映画「サヨナラ」で、1958年度のアカデミー助演女優賞を受賞した「ミヨシ・ウメキ(梅木)」だ。
下は、ウメキの受賞スピーチ映像である。(司会はジャック・レモン、プレゼンターはアンソニー・クイン)
日本人初、どころか、これもアジア人初、だろう。
しかし、ミヨシ・ウメキは、その後、消息不明となった。
小樽生まれのジャズ歌手
少なくとも、私が1990年代に調べたときは、「消息不明」のままだった。
しかし、現在はWikipediaに立項され、その足跡が記されている。
本名、梅木美代志。1929年、北海道・小樽市生まれ。
まだ生きているのではないか、とずっと思っていたが、残念ながら2007年、アメリカ・ミズーリ州で78歳で亡くなっている。先日亡くなったエリザベス女王が1926年生まれだから、それより3歳若かった。
亡くなった時のアメリカでの登録名は Miyoshi Hood だった。
*
日本で長らく「消息不明」扱いされていたのは事実だ。
私は、なんとなく、戦後混乱期の一発屋で、その後は落魄して薄幸な人生を送ったのだろう、とか勝手に想像していた。しかし、これは失礼な憶測だった。
彼女は渡米前に、すでに「ナンシー梅木」名で知られたジャズ歌手で、メジャーデビューもしている。
1955年に渡米して、映画デビュー作「サヨナラ」でいきなりオスカーを取った。
また、オスカー受賞の前に、アメリカのテレビに出て、「地域エミー賞 regional Emmy Award for Outstanding Female Personality in 1958」を受賞している。「地域エミー賞」の位置づけが不明ながら、ここでも「日本人初、アジア人初」かもしれない。ただし、俳優としてではなく、タレントとして、ということになる。
その後ブロードウェイのミュージカルやテレビドラマでも活躍して、トニー賞やゴールデングローブ賞の候補にもなった。一発屋どころではなく、少なくとも15年以上、アメリカのショービジネスの第一線で活躍している。
人気ホームドラマに出演
ウメキは、ABCドラマ「エディの素敵なパパ」への出演を最後に、1972年、芸能界を引退した。
「エディの素敵なパパ」は人気ドラマだったらしく、1970年代に日本でも放映された。
しかも、このドラマでの彼女は準主役で、ゴールデングローブ賞の候補になったほど目立っている。
だから、ウメキが「消息不明」とされたのはおかしい気がする。そのあたりは私もよくわからない。
「刑事コロンボ」と同時代のことになる。私もテレビを見ていたから、「幻の日本人オスカー女優がテレビドラマに出ている!」的な話題になったら、覚えているはずだが、記憶にない。
「エディの素敵なパパ Courtship Of Eddi's Father(エディのパパの求愛)」は、妻と死別してやもめになった父親(「超人ハルク」で知られるビル・ビクスビーが演じた)を再婚させようと、息子のエディがいろいろ画策するホームドラマ(シットコム)である。
父と息子の絆を暖かくユーモラスに描いた作品だ。ウメキは、両者に知恵を授けて再婚を助ける家政婦の役だった。このドラマは、ニコラス・ケイジ主演案など、何度かリメイクの噂があったが、実現していない。
芸能界引退後は実業家に
ワシントンポストの訃報によれば、ウメキの芸能界引退は「円満引退 gladly retired」だったようだ。「エディの素敵なパパ」でキャリアを極めたと満足したのか、あるいは、直前にアメリカ人ディレクターと離婚しているので、それが1つのきっかけかもしれない。
その後、ドキュメンタリーのプロデューサーと再婚し、ロサンゼルスで撮影機器をレンタルする事業を、オーナー経営者として営んでいた。若い頃に芸能で稼いだお金で、人生後半は実業家として生きる、まずは黄金パターンだろう。最後はがんで、前述のとおり78歳で亡くなるが、充実した幸福な人生だったのではないか。
<ワシントンポスト訃報URL> https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/09/05/AR2007090501484.html
<10月5日追記 しかし引退早々に夫と死別し、シングルマザーとして苦労したかもしれないことは別の記事に書いた。彼女はオスカーのトロフィーを捨て去り、それまでの人脈を絶っている。また、「エディの素敵なパパ」放映時に凱旋帰国したが、日本人からコンサートを酷評されたことが心の傷になったと書いている人もいた>
ちなみに、前夫との間に1964年生まれの息子がいたが、彼も2018年に54歳で亡くなっている。ウメキの訃報が出た2007年時点では、その他に娘と、2人の孫がいた。
ワシントンポストの訃報は、次のような泣かせる話で終わる。
「(芸能界から完全引退した)彼女が、唯一歌ったのは、死の約4カ月前、孫娘に日本の歌を教えようとしたときだった。」
(The only time she performed was about four months ago, when she taught her granddaughter a Japanese song.)
「サヨナラ」という映画
オスカーを取った映画「サヨナラ」で、彼女は、朝鮮戦争で来日した米軍パイロットと禁断の恋に落ち、最後は心中する踊り子を演じた。松竹歌劇団の踊り子という設定で、大阪でロケしたらしい。
<10月4日追記。以前ここに貼り付けていた動画は、映画「サヨナラ」のものではなく、1953年の日本映画「青春ジャズ娘」で、映画「サヨナラ」とは関係ない別の「サヨナラ」という曲を歌う映像だったので、削除しました>
この映画では、ウメキの恋人役のレッド・バトンズもオスカーの助演男優賞を取っている。
映画の主役は、同じ空軍パイロット役のマーロン・ブランドである。彼も、やはり日本人の踊り子と恋に落ち、同僚の心中を見て葛藤する、というような話らしい。
当時、アメリカ軍人と日本人女性との恋がご法度だった、という設定がよく分からない。私の生まれる前の話だ。朝鮮戦争では、日米が戦っていたわけではないのに、ピンとこない話だ。
(なお、上の映画ビジュアルで、マーロン・ブランドと映っているのはミヨシ・ウメキではなく、日系アメリカ人の高美以子(たか・みいこ)。やはりこの映画が初出演で、Wikiによれば、オードリー・ヘップバーンに断られたので素人の彼女に役が回ってきたという(?)。彼女は1925年生まれだが、訃報は出ていないようなので、まだアメリカで存命の可能性がある。)
マーロン・ブランド主演で、日本を舞台にした、日本人女優がオスカーを取った映画にもかかわらず、現在はほとんど話題にならない。私も見たことがない。
冷戦下の朝鮮戦争当時、為政者たちは日米同盟の強化を急ぐ必要があった。そういう国策的な意図を感じないでもない。
しかし、受賞者が白人ばかりなのが今さら問題視されているアカデミー賞で、60年前には少なくとも日本人が受賞していることは、公平に評価されていい気がする。
人種偏見の中で
ミヨシ・ウメキに与えられた役柄は、当時のアメリカ人が「アジア人とはこういうものだろう」と考える東洋人だったのは確かだろう。
ブロードウェイでは、ウメキは長らく中国人役を演じた。ワシントンポストの記事でも触れられているが、当時のアメリカ人は(というよりつい最近までそうだが)、日本人と中国人の区別がついていなかった。
下は、ロジャーズ&ハマースタインのヒットミュージカル『フラワー・ドラム・ソング』で中国人役を演じるウメキ。彼女はこの演技で、トニー賞主演女優賞候補となった。
「フラワー・ドラム・ソング」は、サンフランシスコの中国系アメリカ人を中心としたラブ・コメディだ。その中で、人種問題、世代間ギャップなどをマイルドに戯画化している。
当時、アジア系役者が多数を占めるキャスティングは、野心的試みであった。アジア人のステレオタイプな描き方が批判された時期があったが、ミュージカルとしての質の高さから近年再評価され、日本でも最近、コロナのさなかに「21世紀版」が上演されている。
「ミズ・ウメキは、(ブロードウェイで演じた)『フラワー・ドラム・ソング』の中国人メイ・リー役を1961年の映画版でも演じた他、東洋人と西洋人の出会いを描く一握りの凡庸なロマンス、コメディー、ドラマに出演した。」(ワシントンポスト訃報)
(Ms. Umeki repeated the role of Mei Li in the 1961 film version of "Flower Drum Song" and appeared in a handful of mediocre East-meets-West romances, comedies and dramas.)
映画版「フラワー・ドラム・ソング」は、同じロジャーズ&ハマースタインの「王様と私」や「サウンド・オブ・ミュージック」、また同時期の「ウエスト・サイド・ストーリー」のようにはヒットしなかった。
「フラワー・ドラム・ソング」の後、1960年代半ばの彼女はキャリアの低迷期だったようだ。ウメキの半生を描いた伝記映画の製作が一度は予告されたが、実現しなかった。
歌える女優としては、「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュースのような成功を夢見たかもしれない。同じ頃、同じロジャーズ&ハマースタインの作品で脚光を浴びた2人は、キャリア的には重なるところがある。
だがビートルズの時代に、ウメキが育ったジャズやミュージカルの世界は、次第に時代遅れになっていったのだろう。
しかし、彼女は、「エディの素敵なパパ」で力強く復活する。
演技を学んだ記録はないのだが、彼女の演技力は確かなものだった。
下の「エディの素敵なパパ」のクリップでも、「温かみある演技で魔法のように観る者の心をなごませる(the warmth of her art works a kind of tranquil magic)」とタイム誌で評された、その演技の真髄がわかる。このドラマで、前述のとおり、彼女はゴールデングローブ賞候補になった。
(ここでは家政婦役ということもあり、ちょっと市原悦子を連想させる)
そのうえ、彼女は歌も歌えた(アメリカでもレコードを複数出している)。歌手としても俳優としても、天性の資質に恵まれていたというしかない。
その誠実で屈託のないパーソナリティもアメリカ人に愛された。ジゼル・マッケンジー、ダイナ・ショア、アンディ・ウィリアムスなどの有名バラエティ番組によく出演し、テレビタレントとして成功していた。
しかし、彼女に期待されたのは、アメリカ人が考える「東洋人」であり、表現には制限があった。それは、1970年代後半に製作された「刑事コロンボ」に登場する日本人のステレオタイプなイメージを見てもわかる。
「エディの素敵なパパ」では家政婦役だった。「刑事コロンボ」でも、日本人は執事や庭師であり、アメリカ人の使用人だった。
それが1980年代後半の「ダイハード」では、日本人経営者のもと、白人が働くまでに変化する。そのイメージの激変は、同時代にも印象的だった。(ちなみに、「ダイハード」でテロリストに殺される日本人経営者を演じたのは、映画版「フラワー・ドラム・ソング」でウメキの相手役を演じたジェームズ・シゲタだった)
もしその頃まで現役なら、それまでの、おっとりした、優しい、従順なアジア人像ではない、新境地の演技を見せてくれていたかもしれないが、その頃はもう、ウメキは芸能界にいない。
空前絶後の日本人俳優
少女時代のウメキ、梅木美代志は、ラジオから流れてきたアメリカのジャズに魅せられた。戦争中、「鬼畜米英」のアメリカを毛嫌いする父親に見つからないよう、布団をかぶってジャズを練習していたエピソードが訃報に引用されている。
その後、憧れのアメリカに渡り、ショービジネスの一線で活躍する体験をして、何を思って引退したのだろう。いま振り返ると、彼女のアメリカでの活躍に対して、日本人は無関心ないし冷淡であったように思われる(同時期に渡米して成功した小澤征爾やオノ・ヨーコに対すると同様、日本の業界人が嫉妬した?)。それについてもどう思っていたのだろう。そのあたりを知る資料は見当たらなかった。
アカデミー賞では、それ以前も、それ以後も、日本人の名誉賞、外国語映画賞、アニメ賞、作曲賞、衣裳デザイン賞の受賞者はいるが、俳優で受賞したのは彼女だけである。だから、「日本人初」と同時に、現在なお「日本人唯一」のオスカー俳優である。
それだけではない。人種偏見の中、アメリカで、映画・舞台・テレビドラマそれぞれの最高賞(アカデミー賞、トニー賞、ゴールデングローブ賞)の受賞者ないし候補者となり、歌手としても認められていた。これほどの活躍は本国の女優でも難しい。
戦前には早川雪洲のような日本人の国際派俳優がいた(彼は戦後も「戦場にかける橋」の助演でオスカーにノミネートされた)が、戦後の日本人としては空前絶後の快挙、偉業と言える。
ダイバーシティが言われる昨今だからこそ、異質な世界に飛び込んで奮闘したミヨシ・ウメキの足跡は、改めて振り返られていい。(ポリコレがうるさく言われると、偏見があった時代に苦闘したウメキのような人の足跡が、逆に埋もれてしまう恐れがある)
昨年、ミヨシ・ウメキの名前がニュースに出たのを覚えている人がいるかもしれない。昨年のアカデミー賞で、「ミナリ」のユン・ヨジョンが韓国人俳優として初のアカデミー賞(助演女優賞)を取った時、「アジア人俳優としてはミヨシ・ウメキ以来63年ぶり」と紹介されたのだ。
韓国の「パラサイト」がアカデミー作品賞を取るのも、「イカゲーム 」がエミー賞を席巻するのも、アジア人としてうれしい。しかし、日本人は何をしているのか、という思いがある。
韓国のエンタメが躍進したのも、国がそれを奨励したからである。ミヨシ・ウメキ(梅木美代志)のような人がいたことは、日本のこれからの世代に励ましになるのではないか。彼女の伝記がNHKの朝ドラになっても、おかしくないのではないだろうか。
少なくとも、出生地の小樽市は、この「東洋人初のオスカー女優」を顕彰して、記念碑の1つも建てていいと思うのである。
<以下、私のミヨシ・ウメキ研究の続編>
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