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「おい、本をくれ!」 戦後第一次出版ブームの風景

本が売れない、書店がつぶれる、という不景気な話題ばかりの出版界だが、景気の良かった頃の話を一つ。

わたしも生まれる前の、終戦直後の第一次出版ブームの話だ。


敗戦の虚脱感のなか、物資が乏しいなかで、バカ売れしたのが本や雑誌だ。

とくに、哲学・思想書と、「カストリ雑誌」と呼ばれる粗雑な大衆誌がブームになった。

「高級」なものと、「低俗」なものが、ともに売れたのが、面白い。


戦後の解放感を背景に「カストリ雑誌」と呼ばれる大衆娯楽雑誌が乱立した一方、『西田幾多郎全集』(岩波書店 昭和22(1947)-昭和25(1950))の発売に長蛇の列ができ、『漱石全集』(岩波書店 昭和22(1947)-昭和23(1948))がベストセラーになるなど、戦前の文化や教養に対する関心も高いものがありました。
「ベストセラーの歩み」本の万華鏡


「西田幾多郎」「夏目漱石」だけでなく、翻訳ものの思想書もよく売れたという。

この出版ブームのおかげで、戦争を生き延びた文人たちは、経済的に一息つくことができた。


「兵隊作家」だった火野葦平は、戦後すぐ公職追放となったが、追放中は故郷の九州で出版社をやって糊口をしのいだ。

川端康成、久米正雄、中山義秀、大仏次郎などの鎌倉文士は、貸本の「鎌倉文庫」を戦後すぐに株式会社化し、一時期「文藝春秋」と張り合うような出版社になった。

それらも、この出版ブームを背景にしている。


河上徹太郎は、『エピキュールの丘』(大日本雄弁会講談社、1956)のなかで、このブームを以下のように分析した。


敗戦で凍結していたわが経済界に最初の自転の原動力を与えたものは、偏在或いは隠匿された物資を動かすことであった。この闇屋、担ぎ屋の原理に基づく原始的な企業が大々的に生産的な働きをした時代にあって、出版という文化的な企業が最も華やかな花形となって登場したのは、場違いのようでそうではなく、同じような事情が存在するのだ。即ち原稿とか著作家の知的能力とかいうものは、無形で豊富な埋没資源で、仕入れにも運搬にも扱いやすく、利潤の率も高かったのである。
河上徹太郎「戦後インテリ風景一面」(1956)


同じエッセーで、河上が記している以下のエピソードが印象深い。


当時二等車があっても二等の用をなさぬ長距離列車の窓から、一紳士が駅の売子に向って、「おい、本をくれ、本を。」と怒鳴った。するとその声に応じて売子が、「はい、本。」と、答えて何の躊躇もなく一冊の『本』を渡した。それは何か当時所謂カストリ雑誌らしかった。お客は当り前のような顔をしてそれを受け取っていた。


「なんでもいいから活字をくれ」という時代があった。今では信じられないだろう。

それは、河上がこれを記した1956年時点でも、すでに昔話だった。「出版インフレ」で本が売れなくなり、苦境の出版社は1950年ごろから「文庫」や「文学全集」などで生き延びようとする。

やがて「オール読物」や「小説新潮」などから、純文学以外の「中間小説」ブームが起こり、石原慎太郎や松本清張など純文学出身作家を含む、出版の第2次ブームが起こる、という流れになる。


いまや構造的不況業種と思われている出版業界だが、このあたりの盛衰史を見ると、もともと浮き沈みの激しい商売だと分かる。

「偏在あるいは隠匿」された才能という資源は、ひとたび発見されれば利潤率の高い商売になるーーという河上の言は、いまも出版業の本質を突いていると思う。

その「資源」を掘る作業を、出版業界は怠っているのかもしれない、と思って紹介した次第。

まあ、読書の秋だし。



<参考>







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