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「日本映画大学」に元気になってほしい

名誉学長のこと


私の住む「柿生」の隣の駅、小田急線「新百合ヶ丘」は、かつてお笑い芸人の「聖地」だった、という記事を数日前に書いた。


新百合ヶ丘駅前にあった「日本映画学校」(日本映画大学の前身)が、お笑い芸人の登竜門になっていた。なぜ、そうなったのか。その歴史を書いたものだ。

それで、日本映画学校について調べていて、最近まで日本映画大学の学長が佐藤忠男だったことに、改めて気づいた。


私は先月、「任侠道」についてnoteに書いたとき、佐藤忠男の『長谷川伸論』を取り上げたばかりだ。


しかし、それを書いたとき、その佐藤忠男が、近所の大学で学長をやっていたことは、頭の中から抜けていた。

日本映画大学には、駅前の新百合ヶ丘キャンパスと、そこから少し離れた白山キャンパスがある。その白山キャンパスの最寄駅も「新百合ヶ丘」になっているが、実際には「柿生」の方が(少なくとも直線距離では)近いのではないかと思う。

日本映画大学白山キャンパス(川崎市麻生区白山2丁目1−1)


私が柿生に引っ越してきたとき、すでに佐藤は学長職を現在の天願大介氏(学校創設者の今村昌平の息子)に譲っていた。それでも佐藤は昨年(2022年)の死去まで名誉学長の地位にあった。大学HPによれば、死後の現在も「名誉学長」のままである。


だが、そのことをあまり意識していなかった。失礼ながら、佐藤忠男が昨年まで生きていたことも、実は知らなかった。

いま、日本映画大学に入ってくる若者は、佐藤忠男のことを知っているのだろうか。


勲章もらいすぎ


佐藤忠男の仕事を尊敬している私にとっても、彼はだいぶ昔の映画評論家というイメージだ。

上の記事で取り上げた彼の『長谷川伸論』も、1975年の本である。


故佐藤忠男氏(wikipediaより)


私は彼の映画評論を、「朝日ジャーナル」でよく読んでいた。だから、「朝日ジャーナル」が廃刊した1990年ごろ、彼は私の人生からはフェードアウトしていった。

佐藤はそのあと、映画史的な比較的大きな仕事を残す。

だが、私はすでに出版業界に入っていたが、業界的にも、彼はそろそろ目立つ存在ではなくなっていた。

1930年生まれの佐藤忠男は、そのころ60歳くらい。会社でいえば定年退職の年齢だ。


ところが、そこから彼は、ぐんぐんと出世していったのだった。

改めて彼の経歴をまとめると、以下のようになる。

佐藤忠男
本名・飯利忠男。映画評論家。1930年10月6日、新潟県新潟市生まれ。新潟市立工業高校卒。工場で働きながら「思想の科学」などに評論を投稿。鶴見俊輔に認められて、映画評論活動を始める。1976年から雑誌「映画史研究」編集発行。
1996年から日本映画学校校長、同年、紫綬褒章受章、芸術選奨文部大臣賞受賞。その後、韓国王冠文化勲章、フランス芸術文化勲章シュバリエ章受章、モンゴル国政府優秀文化人賞、毎日出版文化賞、国際交流基金賞、神奈川文化賞などを受賞。2002年、勲四等旭日小受賞受章。2011年から日本映画大学学長。2017年から同名誉学長。2019年、文化功労者。
2022年3月17日、胆のうがんで死去、91歳。死後、従四位、旭日中綬章を叙位叙勲。


失礼ながら、工業高校卒で、大した出世ではないか。勲章をもらいすぎだろう。こんなに偉くなっているとは知らなかった。


佐藤忠男の時代


佐藤忠男といえば、アジア映画の権威という印象。世間的にも、そういう評価だったと思う。

それまで、映画評論といえば、淀川長治的な映画宣伝部のハリウッド映画紹介くらいしか知らなかった私にも、民衆目線で中国や韓国、インドやタイなどのアジア映画を紹介する彼の記事は新鮮だった。

1980年代まで、特に私のように田舎にいると、そうしたアジア映画を実際に見る機会はほとんどなかった。佐藤忠男の評論だけが唯一の情報で、それを通じて、日本映画、ハリウッド映画以外にも、世界にはいろいろな映画があるらしい、ということを想像していた。

その業績は、確かに賞賛に値する。

しかし、1990年ごろに、佐藤のキャリアは曲がり角を迎えたのではないか。

佐藤忠男の映画観や歴史観は、「思想の科学」出身らしく、被支配者、被抑圧者の視点ながら、あまりイデオロギー的でないところに魅力があった。

その点で、上野千鶴子の入籍で改めて話題の色川大吉にも共通するが、露骨に左翼主義というわけではなくても、やはり「朝日・岩波」時代、マルクス主義史観流行の時代に、棹さしていた。

1989年に冷戦が終わり、佐藤の映画の見方は、時代遅れに感じられるようになった。業績としては不滅で、だからこそ多くの栄誉を得たのだろうが、同時代の記憶で言えば、たとえば蓮實重彦流の、より新しい映画の見方が流行していく。

そして、ビデオレンタルや、ネットの時代になり、実際にアジア映画を普通に見られるようになると、佐藤の評論のありがたみも減った。それは、岩波ホールの閉館にも通じる歴史の流れだった。

アジア映画、というくくりには、当時の日本以外のアジアを「第三世界」(または第二世界)と見る見方が付着していた。だが冷戦終了で世界が変わり、今や、中国、韓国、台湾、インド、タイなど、いずれも日本よりいい映画を作っている。

そういう意味でも、佐藤忠男の時代は終わっていたと思う。

だが、前述のとおり、むしろ彼は、そのあとから、世間的には出世していた。叙位叙勲のたぐいを有り難がるかどうかは別にして、私のような不遇な退職老人から見れば、誠にうらやましい第二の人生を送った人に思える。


実写邦画の「オワコン化」と映画大学


しかし、佐藤忠男が日本映画学校長、日本映画大学学長となり、偉くなるのと並行するように、日本映画は勢いを失い、アジアを含めた世界のなかで、相対的に地位を落としていく。

その成り行きを、佐藤忠男はどう見ていたのだろうか。

日本映画の凋落を、日本映画大学や、佐藤忠男のせいだと言いたいわけではないが、日本で唯一の「映画大学」であり、その名誉学長であれば、まったく責任がないとも言えないだろう。

もともと今村昌平が1975年に映画の学校を立ち上げたのは、オイルショックを背景にした不況で、映画会社に依存していては映画人が生きていけないと思ったからではなかろうか。

その意味では、危機は継続している。とくに最近の日本の実写映画の落ち込みは深刻だ。

つい最近も、私がいつも見ている七尾与史のYouTubeチャンネルで、「実写邦画のオワコン化が顕著」というのをやっていた。


ネット検索で「実写映画」と入れれば「オワコン」と自動で補充されるほど、実写映画オワコン説は定着している。

日本映画の歴代興収ランキングを見れば、10位中9つまではアニメである。「鬼滅の刃」「千と千尋の神隠し」「君の名は。」「もののけ姫」「ONE PIECE」「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」「天気の子」「すずめの戸締り」。ベスト10に入っている実写映画は2003年の東宝「踊る大捜査線2」だけだ。

最近では、キムタク主演の時代劇大作「レジェンド&バタフライ」がコケたばかりである。(例によっての「キムタク忖度」で、マスコミはそのことを隠すのだろうが)

こういう成り行きは、さすがの今村昌平も予想できなかっただろう。

日本映画大学新百合ヶ丘キャンパスのすぐ近くには、シネコン(イオンシネマ新百合ヶ丘)がある。

ひところは洋画のヒット作もなく、閑古鳥が鳴いていて、それにコロナが重なり、もうすぐ潰れるのではないかと心配していた。

しかし、最近は完全に息を吹き返している。休日などは満員の日も珍しくないようだ。

もちろん、実写邦画のおかげではない。「鬼滅の刃」や「スラムダンク」のようなアニメのメガヒット作と、「トップガン」など久々の洋画大ヒット作のおかげである。

イオンシネマ新百合ヶ丘


日本の実写映画は、アニメに大きく水を開けられてる。人気漫画も、アニメ化すると当たるが、実写化するとコケる。上記のランキングで明らかなように、もはや興収で実写映画がアニメを抜くことは不可能に近い。実写映画とアニメを比べて、映画館がどちらをかけたいかは明らかである。

日本映画大学にかよう学生も、教員も、それを見ているはずだ。彼らはそうした状況を、どう考えているのだろう。


日本映画大学の「地域連携」


実写邦画が惨状をさらすシネコンを横目で見ながら、日本映画大学が地域で何をやっているかと言うと、「映像×SDGs」なんてイベントをのんきにやっている。

日本映画大学協力による「映像×SDGs」チラシ


いまどき「SDGs」なんて聞くと、サヨク筋の「公金チューチュー」じゃないかと疑わしくなるが、それはともかく、日本映画大学としては、こんなことやってる場合じゃないだろう、と私は思うのだ。

そんな、どこでもできるような、「いいこと」をやっているヒマがあったら、客の入る映画を作って、新百合ヶ丘のイオンシネマで上映してほしい。映画館をもうけさせてほしい。それでこそ、映画大学の地域連携であり、文化貢献だろう。


苦しそうな現状


日本映画大学の評判をネットで探すと、あまりいい話がない。

学生が集まらないので、留学生で穴埋めしている、なんて噂があった。

ただの噂だろうと思ったら、実際、学生総数442人のうち、約半数の197人が私費留学生、そのうち175人が中国人である(2022年5月時点)。


少子化時代、大学経営も大変なのだろうが、頑張ってほしいものだ。

日本映画大学の最大の功績は、結局「映画学校」時代に、内海桂子好江の漫才クラスから、お笑い芸人を多数輩出したことだった、ということで終わらないように願いたい。

その「お笑い時代」には、日本映画学校は、若々しいエネルギーをこの地域に放射していた。

学長職を世襲するのも結構だが、今の日本映画大学は、何かすごく保守的で古いコンセプトの大学になっていないか。大学のHPを見て、そう感じてしまった。若々しい活気がまったく伝わってこない。

それで思うのだが、日本映画大学は、変な芸術志向はやめて、「今村昌平」も「佐藤忠男」もいったん忘れて、アニメ科なんかを作って、OBの狩野英孝を講師に呼んだりして、新しいコンセプトで出直すべきではなかろうか。

「今村昌平」「佐藤忠男」の業績は業績として、そこにこだわっていては、新しい映画の時代に対応できないと思うのだ。


実相寺昭雄と岡本喜八の資料室を作ろう


上記の提案と矛盾するようだが、日本映画大学にもう1つ提案がある。

地域連携ということでは、麻生区に住んでいた「実相寺昭雄」、隣りの多摩区に住んでいた「岡本喜八」など、地域ゆかりの映画人の資料室を作って、公開してはどうだろう。

実相寺昭雄は、日本映画大学新百合ヶ丘キャンパスや、新百合ヶ丘駅がある「麻生区万福寺」に住んでいたので、一時期「万福寺百合」という筆名を使っていた。

日本映画大学新百合ヶ丘キャンパス(川崎市麻生区万福寺1ー16ー30)


また、新百合ヶ丘から急行で1つ目の駅である「向ヶ丘遊園」には、かつて岡本喜八いきつけの喫茶店があって、彼の映画ポスターなどが貼ってあった。いまはそうした痕跡が消えているだろう。惜しいことだと思っている。

今村昌平と実相寺昭雄は、共通の友人である石堂淑朗(日本映画学校2代目学長)を通じて近かったはずだ。岡本喜八との関係はよくわからないけれど、同時代の仲間だったと思う。

今村昌平
1926年、東京都渋谷区生まれ。「神々の深き欲望」「復讐するは我にあり」「ええじゃないか」「楢山節考」「うなぎ」など。日本映画大学創設者、学長。
2006年、79歳没

実相寺昭雄
1937年、東京都四谷生まれ。テレビ「ウルトラマン」「ウルトラセブン」の演出、映画「帝都物語」「ウルトラQザ・ムービー」「姑獲鳥の夏」など。東京藝術大学教授。
2006年、69歳没

岡本喜八
1924年、鳥取県米子市生まれ。「日本のいちばん長い日」「独立愚連隊」「肉弾」「ダイナマイトどんどん」「大誘拐」「EAST MEETS WEST」など。庵野秀明に影響を与える。
2005年、81歳、川崎市多摩区で没。

今村昌平自身は東京の人で、もともとは川崎と縁がない。映画学校が新百合ヶ丘に来たから縁ができただけだ。

その縁で、新百合ヶ丘駅前の川崎市アートセンターには、「今村昌平監督『カンヌ国際映画祭受賞パルム・ドール』展示コーナー」がある。

それならば、もっと前から川崎市北部に地縁がある実相寺昭雄や岡本喜八の展示も、置いてほしいと思うのだ。日本映画大学の存在により、逆に実相寺や岡本の存在が排除されているとしたら、おかしなことだと思う。

そして、横浜放送映画専門学院時代に今村のもとから育った、三池崇史のような現役監督の展示もすべきだと思うのである。

大学の創立者だからと、今村昌平ばかり持ち上げるのは、手前味噌すぎると言うか。地域住民としてはシラケるばかりだ。もっと広く、地域と時代に根ざすべきではなかろうか。

「ウルトラマン」で有名な実相寺や、庵野秀明に影響を与えた岡本などには、現代の若者も興味をもつ糸口がある。

アニメも含めて、いまの人々が実際に楽しんでいるエンターテイメントや芸術と結びつけるべきなのだ。その方が、こう言っちゃなんだが、カビが生えた「パルム・ドール」をいつまでも有り難がるより、よほど文化的だし、映画の未来につながると思う。


元気を取り戻してほしい


日本映画大学は、残念ながら、4年制大学になる前の「横浜放送映画専門学院」や「日本映画学校」時代の方が元気があり、存在感があった。

そう言われるのはつらいだろうが、なんとか元気を取り戻してほしいものだ。

日本映画大学は、日本唯一の「映画大学」であるとともに、我が柿生唯一の「地元の大学」である。

私は買い物のたびにその前を通っている。

元気がない姿を見たくないので、地元住民として、余計なことながらアドバイス申し上げた。






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