「報道」という搾取 新聞はなぜインタビューにギャラを払わないのか
哲学者の千葉雅也がX(ツイッター)で、新聞のインタビューがノーギャラであることに疑義を呈している。
よく問題になるし、ジャニーズ問題の背景の一部でもあるので、取り上げたい。
今度掲載される新聞のロングインタビュー、ノーギャラだという。(新聞はそうだろうと思っていたし、担当の方は気にしないでいただきたい。)しかし、あのような大きなコンテンツ制作に関わり、時間拘束されて無料とは、新聞とは一体どういうビジネスなのかとやはり思う。
社会や政治の報道であればそうだと思うが、しかし文化面というのは、無茶を承知で言えば、ちょっと違うのではないかと思う。雑誌の誌面作りと何が違うのかと思わざるを得ない。文化部記者が書いた地の文を確認できないというのも、出版社でのインタビュー記事などと比べて意味不明だ。
私も新聞社では、取材はノーギャラが原則だと教わった。
なぜなら、ギャラを払うと、カネのために虚言をなす者がいるからだ。
新聞は、「カネ」という動機を除外した、公正な言論だけを載せる。
もっとも、これは原則であって、例外はよくあった。
少し有名な文化人だと、「原稿料」名目でギャラを払うこともあった。
ただし、いずれにせよ少額である。
また、記者の文章や記事のゲラを、取材対象者に見せないというのも、新聞社、あるいはジャーナリズムの原則の一つだ(これにも例外があるが、この問題はここでは触れない)。
ジャーナリズムの裏事情
私が問題にしたいのは、その「公正な言論」の裏事情である。
千葉が感じているように、インタビューが新聞のコンテンツになれば、それは新聞の利益になるのだから、協力者である千葉に配分がないのはおかしい。
千葉がカネ目当てで言っているとは思わないが、「違和感」のもとは、そのあたりだろう。つまり、新聞は不当に利益を得ているのではないか、と。
しかし、新聞の側から見れば、記事を載せる理由は利益になるからであり、それは当然である。
比較的最近まで、インタビューを受ける文化人や芸能人がそれに不満をとなえなかったのは、新聞に出ることが「宣伝になる」と思ったからである。
新聞の側からいえば、「載せてやって、宣伝してやってるのだから、ノーギャラで当然」となる。それが、「公正な言論」の裏にある裏論理だ。
話はそれで終わらない。
世の中には、パブリシストという職業がある。いわゆるPRの人だ。
彼らは、クライアントからPRを頼まれ、クライアントの商品をメディアに露出させる仕事を請け負う。
カネを払って「記事」を載せるーーいわゆる「記事広告」は、広告マンの仕事だが、PRは別だ。
露出を可能にするために、パブリシストたちは、日ごろから新聞やテレビの担当者と親しくして、いざというとき「言うことを聞いてくれる」ようにしておかなければならない。
出版社も、パブリシストを利用する。少し大きな会社なら、PR担当を社内に複数かかえている。
新聞社の文化担当記者たちは、そのターゲットになる。
千葉のインタビューが、どのような経緯で企画されたものかわからないが、千葉の本を出している出版社や、その意をくむパブリシストからの働きかけがあったかもしれない。
話題の本を出している著者にインタビューする、そのさい出版社をとおしてアプローチする、という形で成立する記事は多い。もちろん、本や出版社の宣伝目的ではないが、結果的に売れ行きに結びつくことがある。
パブリシストたちが、新聞社などのメディア担当者たちにどうアプローチするのか、私はよく知っているわけではない。
そこにもルールはあり、露骨に買収することはないかもしれない。しかし、饗応を授けたり、なんらかのギブアンドテイクがなければ、PRの仕事は完遂しないだろう。
ここで私が言いたいのは、文化人のインタビューをノーギャラで載せることで、利益を得ているのは新聞社だけではない、ということだ。
その記事の担当者が利益を得ているかもしれず、PR会社がうるおっている可能性もある、ということだ。
同じことは、テレビに文化人や芸能人が出演する場合にも起こり、たぶんより多くのカネが動く。
直接の利益を受けていないのは、いちばんの主人公であるはずの、インタビューを受ける本人だけかもしれない。
しかし、その結果、新聞で露出して、本が売れれば、著者にとってもいいではないか、と思うかもしれない。
まさに、そういう論理で、著者インタビューはノーギャラで成立してきたわけである。
「ノーギャラだから公正な言論」というオモテの論理が疑わしいとしても、ウラの世界で関係者全員の利害が一致していればよかった。
だが、そのウラのギブアンドテイクが崩壊しつつある。
いうまでもなく、新聞の影響力がなくなってきたからだ。
それで、オモテの論理の偽善性が、ますます露わになっている。
文化を「私物化」していたメディア
かつて、新聞は、「報道」目的だといえば、世の中のものをなんでもノーギャラで使えた。
報道の自由という憲法の後ろ盾もあった。
それは、だいたい1970年代までそうだったと思う。
文化人も、芸能人も、スポーツ選手も、新聞で取り上げられる、というだけで感謝感激だった。
それが宣伝になり、権威になり、商品価値が上がるからだ。ノーギャラなんてことは気にせず、むしろ新聞に謝礼を払いたい思いだったろう。
2021年のオリンピックで、メディアは莫大な協賛金を支払わされたが、1964年のオリンピックは、取材はタダだったはずだ。
有名スポーツ選手の写真集も、「報道写真集」と言い訳すれば、ギャラを払わなくてよかった。
羽生結弦のような人が、早くプロに転向しなければならなくなったのも、アマチュアのままだと、メディアに「報道という搾取」をされてしまうからだ。
芸能人も同じで、顔写真もほぼ使い放題だった。
こういう仕組みが、メディアを太らせていった。
むかしは、芸能事務所や、スポーツチームの一部も、メディアが所有していることがあり、いわばメディアは、文化を「私物化」していた。
個々の文化人、芸能人、スポーツ選手などの才能の果実、本来彼らが得るべき利益のかなりの部分が、メディアに「搾取」されていた。
むかしの新聞社がじゃぶじゃぶ儲かり、社員の給料が日本最高水準であったのも当たり前だった。
(その根本は、「コンテンツ」のコストの低さだった。安易にコンテンツを「盗む」ことに慣れてしまった。戦前は、まだ新聞社がコンテンツづくりに励んだ=たとえば遊園地経営や映画製作などをおこなった=のだが、戦後はそれをサボった。そのツケが回ってきている)
ジャニーズが変えた関係
新聞社の天下が終わり、メディア事情が変わってきたのは、私が就職した、1980年代からではなかろうか。
そして、その中で大きな役割を果たしたのが、ジャニーズ事務所だった。
「肖像権」がやまかしく言われはじめた。ジャニーズ事務所を筆頭に、もう自分たちの「資産」をメディアに勝手に使わせるのはやめよう、と戦闘状態に入ったのだ。
日本のマスコミの力が相対的に弱まり、芸能事務所との力関係が逆転していくのが2000年代だと思う。
それ以降、ジャニーズ事務所のような芸能事務所は、メディアの手ごわい相手になった。
2010年代には、新聞社系週刊誌のネット版で、ジャニーズ芸人の顔だけマスキングされた奇妙な図像をよく見るようになった。報道の自由どころか出版・表現の自由はどうなっているのか、と思ったが、それだけ新聞社の力がジャニーズにたいして弱まった証拠だった。
最終的には、芸能事務所にメディアが「支配」されるような事態にいたったのである。
千葉のインタビューの話からだいぶそれてしまったが、このように見れば、新聞の「ノーギャラ」の問題性と構図が見やすくなるのではないか。
ジャニーズとメディアとの関係史から類推すると、最終的には「力関係」がギャラの有無や多寡を決めている。
世の中、結局、影響力の力関係で、なんでも決まっていくのである。
千葉の属する出版界や学界の力が、新聞社よりも十分に大きくなれば、力関係は逆転し、千葉先生のインタビューを掲載させていただくために、新聞社が、出版社なり千葉なりにギャラを払わなければならないだろう。
しかし、出版社については、その力も、新聞社の力同様に弱くなっているので、力関係は変わっていない。
(ただし、漫画のコンテンツを持っているいくつかの出版社は別で、いまや新聞社より強い。だから、人気漫画やアニメの図像が新聞に登場することはほとんどないが、それで漫画出版社は困らない。)
新聞社の部数減が加速して、世の中の影響力がさらに低下したら、ベストセラー著者にノーギャラで登場してもらうわけにいかなくなるだろう。
そして、それは新聞社の残っている体力も奪っていくかもしれない。
いま、ジャニーズ事務所は、ジャニー喜多川の性加害以外でも、所属芸人のギャラを搾取していたのではないか、という疑惑と批判の的になっている。
しかし、ジャニーズ事務所には、かつてメディアに「搾取」され放題だった芸能人の権利を、芸能界に取り戻させた、という功績があると思う。これは以前にも書いたとおり、メディアにいたときは苦々しい存在だったが、功績は功績と認めるべきだろう。
ジャニーズが所属芸能人から「搾取」しているとしても、それはかつてメディアがやっていたことと同じだ。
<参考>