四季詩集(3)
大木実『屋根』
日暮らしのつとめに疲れ
帰っていくわたしを待つものは母ではなかった
ひとつの部屋であり
暗くなれば点るあかりであった
冒頭から親近感を覚えるような言葉で始まります。会社勤めの独り暮らしで、誰もいない部屋に帰っていく景色は、現代人にとって容易に想像がつきます。日暮らしのつとめに疲れという言葉に共感するひとは沢山いるでしょう。しかし、この詩はもっと深い孤独を詩っています。
この詩には「28歳になった自分」「母がいないこと」が記されています。そして何事もなく過ぎていった28年を振り返り、寂しい暮らしだったことが書かれています。部屋が待っているという表現は孤独を感じさせる一方で、部屋を暗くなれば点る明かりとして捉え、希望のように表現しています。それは、辛く寂しい青年期を乗り越えたというよりは、歳を重ねる毎に孤独に慣れてしまったという状況でしょうか。決して人間関係に対する辛さではなく、孤独そのものに対する辛さを過去のものとして表現し、「部屋」という明かりに包まれた空間が母のように親密にある印象です。
わたしはいつからか
わたしの暮らしのうえにある
屋根というものに深い信頼を寄せはじめていた。
雨や風から守るように在る屋根が、信頼できる”ひと”のように表現されていて、孤独感に始まった詩でありながら、絶望に終わることのない不思議な詩です。仕事に疲れた自分を受け入れてくれる部屋と、外界から守ってくれる屋根が、母のような優しい存在に思えたのでしょう。
木村宙平『富士に』
いや富士はもっと神秘な逈かさにみえる
極光だとか蜃気楼だとか
そんな観念に通うように
僕はいま空虚なのだ
富士山に語り掛けるように書かれた詩で、富士山と対峙した視点で一貫しています。朝日が薄赤く射しかかり、泡のように消えていく月と、麓に広がる緑が色彩を強める景色に、神秘性を感じたような表現がされています。空虚な自分とは、熱い思いが消えてしまった心静かな自分であり、そんな自分と対比されるような景色から何かを感じ取ろうとしているようです。
あなたの項に
ひとつぽっつり雲の子が現れて
おおぜい仲間達を呼びあつめて
手をつないであなたの周りに
踊り始めるのを待っていよう
あるいは”雲の子”が自分の投影であれば、仲間と過ごしていた過去を懐かしむ懐古の詩ともいえるかもしれません。
阪本越郎『雨の昼』
雨がつくった水溜に青草が映って
銀の糸がまだ透明な輪をひいている
雨上がりの昼にきらきらと光る蜘蛛の巣や、鏡体のように現れた水溜が晴れ晴れしい印象を与えます。外に在るあらゆるものが雨に濡れて、まるで新しいものに姿を変えたかのような不思議な感情があります。
雨の間、家の中でしのいでいると、いつか晴れ間がのぞきます。外へ出ると雨に滴る景色が広がり、虹が架かっていたりして、夢の世界のような印象を覚えます。
ああこんな昼日中が私を過ぎるのを
そこにやさしくみつめているのはだれですか
散乱光に包まれて幻想的な昼が過ぎていく様子が詩われています。みつめているのはだれですかとは、作者にとっての大切な人を指しているのでしょう。その相手と一緒にいるのか、離れているのか分かりませんが、夢の間にも会いたいひとなのでしょうか。
阪本越郎『人生』
なべて思い出の象嵌されし……
わが手をとりて泣きしひとを 母といい
こまやかに笑みけるひとを 友と呼ぶ
かくて日も処も朧めく霞の網
例えば四半世紀を越えて30代にさしかかり、人生を振り返ると確かに様々な出会いがあったでしょう。身近なひととの思い出を振り返ると、懐かしむ一方で不確かな記憶もあることに気づきます。社会の喧騒にまみれて、かつての思い出の言葉が消えつつあることに悲しみを感じます。
……なかばはけむる思い出の
うたてしや なかばは灰となり果つる
しかし今に留まることは出来ず、庭の月光の景に過去を投影するように懐かしむ、記憶の儚さが詩われているようです。
終わりに
『屋根』は日常のなかで感じたことを詩的表現に落とし込んでいて、屋根や部屋と自分との関係性の変化が、まるで人間関係を見ているようでした。
『富士に』『雨の昼』は景色が印象的に描かれていていました。ある景色に対して想像を膨らませて抒情的に表現されています。
『人生』は自分の記憶を見つめた詩で、過去を懐かしむ気持ちと、未来に進まなければならないという葛藤がひしひしと伝わってきます。
今回は、自分を人生を振り返るような内容の詩が印象的でした。
余談
以外と多くの方に読んで頂けて嬉しいです。ありがとうございます。
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