四季詩集(2)
乾直恵『梢』
陽の光が地上に描き出している
彎った枝の影(なり)は、
あれは、私の意思の姿(なり)だ。
葉を散らし尽くした樹木が、寒空に佇んでいる描写に始まります。彎った枝の影を自分の意思に例えていることから、迷いの感情が感じられます。そして「誰にもうち開けようのない愁しみ」という言葉が続いたかと思うと、到頭思い余って何かを決心します。文脈から何かを長い間思い悩んでいたことは推察できますが、何を決心したのかという描写はありません。
樹木が落葉樹であることから、青々と生い茂る姿から季節を経て葉が落とされる姿までを日々見つめることで、最後に残った消えることのない歪な枝に強い意志を感じたのでしょう。そして社会のなかで傷つき失ってきた自分にも意思は消えることなく残っていることを認識し、愁しみを噛み締めたまま歩き始める決心を詩っているのかもしれません。
雲よ、小鳥達よ、
心せよ、
歪んだ私の梢(うれ)にひっ繋るな!
そして吹き始めた風のなかに、逃げてくる小鳥と追いかける雲が現れると、上記のように語りかけています。「ひっ繋るな!」という強い警告からも、がむしゃらに這い上がる強い意志が迸っています。
内木豊子『季節』
あなたはうつくしく
私にばかり みえたようだ
何んな色か わすれてしまったのだが
ちょうど 今日の景色のよう
「季節」というタイトルから、春夏秋冬の何れかを詩っているのかと思いましたが、詳しい描写はされていません。景色から連想される季節はそれぞれあると思いますが詳しく書かれていないので、ここでは季節を時間の流れとして捉えているように感じました。つまり「あなた」を「季節」として読むのではなく、あくまで「あなた」は「特定の個人」を指していると思います。詩のなかには、何処へ行っても優しすぎるというような内容と「何に乗って お発ちになったのか もう 招びもどすすべもない」という記載があります。これは、過ぎていく季節がいつの間にか移ろうことを表現しているとも読めますが、冒頭の「あなた」を「季節」と読まなければ、その言葉のとおり誰かに投げかけているとも読み取れます。むしろ「季節」というタイトルの直後に「あなた」という言葉を入れることで、「あなた=季節」と認識させて、以降の言葉の真意を隠すという二重の表現なのかもしれません。
季節よ お前をこわさずに見ていよう
私の中へ
静かに そっと帰る日まで
本文のなかで初めて「季節」という言葉が出てきたかと思えば、「お前」と語りかけています。「あなた」ではなく「お前」ということは、やはり「あなた」は「特定の個人」を指しているのでしょう。つまり上記の一節は「季節という時間の流れに身を任せて『あなた』を待っている」という恋心のようにも感じます。
おそらく「お前」という言葉がなければ、単純に季節を詩っていると認識していたでしょう。この「お前」と「あなた」という呼び方を敢えて分けていたとすれば、作者はその真意を読み手の誰かに気付いてほしいと思っていたのかもしれません。私は奥ゆかしい綺麗な詩だと思いました。
表現の奥深さ
2編の詩を読みましたが『梢』は詩に書かれていない前段からの流れを想像させるもので、『季節』は詩に書かれた内容の違和感から真意を辿るようなものでした。私はどちらかというと恋心を詩った詩は苦手なのですが、『季節』は恋心を押し隠した奥ゆかしさのようなものを感じて、感動を覚える内容でした。そして短い文章にも時間をかけて向き合わないと気付かないというところに、表現の奥深さを感じました。
終わりに
資格の勉強とかをしなければいけないのですが、ついのめり込んでしまいました。不定期と言いつつ連日投稿していますが、休日だと勉強そっちのけになりますね。少しペースを落とします。
おそらく「四季」の同人たちは互いに作品の批評とかもしていたと思うのですが、ひとつの作品を分析してみると面白いですね。書かれている文章が全てではないということを改めて認識しました。
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