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短編小説「愚者」


 

 我が子の成長というのは喜ばしいことである。しかし、その成長を知人や職場の人間に事細かに伝えるべきではない。口から出た言葉は、それがどれほど事実に基づいていようが、受け手側からしてみれば疎ましく、またひどい時には傲慢な自慢の様に捉えられてしまうからである。「雄弁は大事であるが、沈黙すべきときを心得ていることはより大切である」著名な思想家が述べているこの言葉は、なにも政治家や指導者にのみ向けた言葉ではない。




 年明けし3ヶ月も経つ今時分、冬の厳しい寒さは既に十代の頃に過ごした知己のシルエットの様に朧げになってきた。壮年と呼ばれる年齢に片足をつけた男性は、ここ1週間ずっと口を閉ざしていたことをようやく話せる機会が巡ってきたことを喜んでいた。




 「最近ね、家の玄関掃除を長男が朝晩とやってくれるんですよ。私はこれまで出かける時や帰宅した時は必ずシューズボックスから靴を出し入れしてました。でも最近は朝になると長男が靴をシューズボックスから取り出してれます。それに、私が帰宅したタイミングでも玄関掃除をしてくれるんです。玄関はとても綺麗なのに、朝と同じ様に靴はそのままでいいと話してくれて、掃除をしながらシューズボックスにしまってくれるんです。きっと、今年の誕生日やクリスマスに欲しいものでもあるんだと思います」壮年の男性は、先輩が追加で注文したビールが来るまでの間、ちょっとした報告として披露するつもりであった話は、長男の成長に対する喜びが次から次へと出てしまっていた。




 「朝晩両方ともやるのかい?」先輩は机に残っている枝豆を食べながら後輩に尋ねた。先輩の表情から読み取れる驚きの色は、後輩をアルコール摂取よりも気持ちを高揚させた。「はい、あの私に似て勉強が苦手でガサツなあいつが、私や妻に言われたからやってるんじゃなく自ら進んでやっているんです」後輩は努めて真剣な表情を作ってはいたが、口角が微かに天井を向き出しており、自慢気な印象を与えていることに本人は気づいていない。




 「お小遣いとかをねだっているのかい?」「いいえ、完全に無償でやってます」いよいよ後輩の笑顔は顔面に固定され、喜びを隠す気配は既に皆無となった。「そうか、そうか」先輩は静かに頷くと、枝豆をまた三つ四つと口へ運び、神妙な顔を作った。




 そして、先輩は枝豆の皮によって汚れた指先を、机の上に乱雑に置かれていたおしぼりで拭くと、静かに話し始めた。「気を悪くしないでくれ。これから話すことは、一つの可能性というだけであって、決して君の素晴らしい息子を侮辱して話すわけじゃない。そこをどうか理解して聞いてくれないか?」先輩の言葉は、今まで陽気な心持ちではしゃいでいた後輩に対し、冷や水をかけるような内容のものであった。瞬時には先輩の言葉を理解できなかった後輩も、言葉を頭の中で反芻する後、漸くことの内容を理解した。




 「どういうことですか?」後輩の言葉は今までの陽気さをはらんではいなかった。その代わり、先輩に対する沸々と湧き上がってくる怒りを少しばかり滲ませていた。「子供ってのは親が思うより大人じゃない。だけど、考えなしなわけじゃない。普段とそぐわない様子なら喜ぶべきじゃないんだ。何か裏があると思い少しばかりの疑念を持って対応するのが教育なんだ」後輩の変容する語調とは正反対に、先輩の態度は毅然としていた。口にする言葉には確固たる自信が透けて見える様であった。




 「いいかい、子どもは間違いをおかすものだ。しかしそれは仕方がない。だが、その後の行動に誤りがある場合は正してあげなければならない。『偽装や隠蔽といった、間違いに対する逃避行動なら尚更だ。』愛する我が子に、成功体験を与えてはいけない。いいか、何時いかなる時も、『助けて』という最初の小さなサインに気付けない愚か者は、親なんだ」先輩の口にする内容の重さを受け事態の深刻さに後輩も漸く気づいた様である。アルコールで軽くしていた頭も、今となっては頭痛にも似た重さを後輩に感じさせていた。押し黙る後輩を見て、さらに先輩は続ける。




 「簡潔に言う。シューズボックスには何が入っているんだ?」先輩の言葉はひどく冷たいものであった。後輩は先輩の剣幕に当てられ、脳内で考えるべき言葉が自動的に口から流れ出た。「私と、嫁さんの靴があります……。それに、俺の革靴を磨く道具も……」後輩の顔は少しばかり青ざめて来た。「息子の靴は?」「息子の靴はいつも出しっぱなし……いや、違う」後輩はいよいよ血の気が引いていくのを感じた。(そうだ。息子が玄関掃除を始めてから、私は息子の靴を見ていない!息子の靴はどこにいった?)




 「息子の靴は普段と別にシューズボックスに入ってる。だから、家に帰った時に玄関の綺麗さがより際立って覚えてたんじゃないかな。息子さんは靴をシューズボックスに仕舞うようになった。でも、『仕舞っている靴をお父さんに見せたくない』だから、玄関掃除なんじゃないか?それに、夜玄関掃除すれば朝する必要なんて皆無じゃないか」先輩は真剣な表情で後輩の目を見据えた。その鋭い目は、愚かな父親を静かに叱責している様であった。




 「すぐに帰って息子の靴の様子を確認するんだ。何もなければ万々歳。そして、もし……。何かされている様だったら、まずは強く抱きしめてあげろ!その時に間違っても『気づいてあげられなくて、ごめん』なんて情けないこと言うなよ。お前の息子は、ずっと一人で耐えていたんだ。必要なのは謝罪じゃなくて息子に対する賞賛だ」と、力強く先輩は語り店を出る身支度を始めた。上着を羽織りながら先輩は、どうか愚か者は考え過ぎな自分である未来を強く願った。





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