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戦時中のマンガ・アニメとは|のらくろ、ディズニー、桃太郎などを通して平和を知る

私は「はじめてのおつかい」で泣けない。迷子になって、スヌーピーのアップリケがついたきんちゃくを地面に置いて「おかあさん‥‥」となってる子を見て「ちょ、おいおいおいおい無理すな無理すな。ちょいちょい、これディレクターが助けてあげんと……」と焦ってしまう。

ただ、凶悪な事件があったとき、または暴力的な出来事が起きたときに、なぜか高確率で「はじめてのおつかい」を思い出して泣きそうになる。

真顔のニュースキャスター観ながら、頭のなかで「ドーレミファーソーラシドー♪」が鳴り始め「あんなに平和ないっぽうでこんな悲惨なことが……」と悲しくなるわけだ。

つまり無意識的に「逆」を連想するように脳ができてるんですよね。夏の暑さを感じると、冬の寒さの大切さを思うような感じ。天邪鬼なのかなんなのか、思考がいつの間にかバグってたわけです。ええ。

で、この前、第二次世界大戦中のコンテンツについて調べていたんですけど、もうなんか猛烈に「平和ってええなぁ」と涙ぐんでしまったっていう事故が起きまして。

もはやサンプリングされた「ドーレミーファーソーラシードー♪」がもう輪唱につぐ輪唱で延々に脳を駆け巡り、5週目くらいにはなんか10人くらいの黒人のゴスペルシンガーが身体を横に揺らしながら合唱し始めたわけです。それで「戦争って嫌だなぁ」と心から思い、タリーズ・コーヒーで一人ウルっときた。

当たり前ですけど、1930年代後半から1945年ってのはやっぱ悲しい時期なんですよ。それを再確認できたんですね。

そこで、だんだんと生き証人がいなくなりつつある2022年。マンガやアニメを通して当時の様子を記したいな。と、もうコレは自分のためにも思ったので、我ながら珍しく真面目ですが、今回は「戦時中のアニメ・マンガ業界」について紹介していきます。

戦前のマンガやアニメってどんな感じだったのか

学童疎開中の子どもたち

戦中とのギャップを書くために、まず「戦前のマンガ・アニメ」について紹介します。

ちなみに以下の記事ではマンガとアニメの歴史をずーっと昔から振り返ってますので、暇で暇でしょうがなくて、気分でもないのに模様替えしちゃう方はぜひ読んでみてください。

戦前に大ブームになるマンガ『のらくろ』

田川水泡『のらくろ二等卒』

まず1930年代のマンガ業界ってどんな感じだったのか。ざっくりいうと発表の場が「新聞四コマ」か「漫画雑誌」の2パターンに分かれます。で、一作品につき、基本的には4ページ。16ページ描いたら「長編」といわれる時代です。

いろんな作品が出てくるわけですが、なかでも、雑誌「少年倶楽部」から出てきた『のらくろ 二等卒』はめちゃめちゃ人気になった。

田川水泡『のらくろ 二等卒』の1話

作者は田川水泡。個人的には大好きなマンガ家です。彼はもともと日本のダダイスト集団「マヴォ」に属していた前衛芸術家です。

マヴォ

ダダイズムについては以下の記事で詳しく説明してますので、これも暇なときにぜひ。

「マヴォ」は日本において最初にダダイズムをやった集団です。ダダイズムというか「マヴォイズム」と自称して過激なパフォーマンスをしていました。

文科省の管轄(当時)で開かれていた展示会「二科展」に落選したものを集めて公道を練り歩こうと企画したり、トラックに乗ってピストルを打ちまくりながら銀座の町を走ったりしていたんですね。「おでんツンツン」であんなことになる現代からすると、もう嘘みたいなアーティスト集団です。以下が「マヴォの宣言」の一部だが、完全に頭がおかしいんですよね。大好きです。

私達は尖端に立つている。そして永久に尖端に立つであらう。私達は縛られてゐない。私達は過激だ。私達は革命する。私達は進む。私達は創る。私達は絶えず肯定し、否定する。私達は言葉のあらゆる意味に於て生きてゐる、比べるに物のない程。
「マヴォの宣言」

そんな前衛アーティストだった田川水泡は、マヴォを抜けた後に新作落語の脚本家に転職します。そこで大日本雄弁会(今の講談社)と出逢い「マンガをやってみないか」となる。絵もストーリーも描けるわけですから、ピッタリなのだ。

それですっかり丸くなった田川は「男の子にウケるマンガを描こう」と思い立ち、男子が好きな「犬と戦争」を混ぜて「のらくろ」がスタートするわけです。日本が太平洋戦争に入る10年前、1931年のことでした。

ちなみにキャラデザは、日本だと「猫ガム」でおなじみ「フィリックス・ザ・キャット」。犬を描くのに猫をモデルにしたんですね。

フィリックス・ザ・キャット

当時、日本では2年間の兵役があったので、最初は2年で連載が終わる予定だったそうです。しかし蓋を開けてみると、コレがもう大ブーム。手柄をあげて昇進していくという「島耕作システム」が追加され、大尉まで出世します。長期連載コースに入っちゃったわけです。

戦前は「セル画前のアニメ」だった

大藤信郎『黒ニャゴ』

では同じ戦前でもアニメ業界はどんな感じだったのか。アニメ技術に関しては、日本より海外のほうが先行していました。

1921年、『ポパイ』とか『スーパーマン』を作ることになるフライシャー・スタジオができます。1926年にはトーキー『なつかしいケンタッキーの我が家(原題:My Old Kentucky Home)』が完成している。

また1923年にはウォルト・ディズニー社が設立。一発目の『蒸気船ウィリー』が1928年に公開されています。こんなに早い段階でめちゃめちゃレベルが高いアニメができてたのがびっくりですよね。

これらのアニメはセルロイド板に絵を描くことで作られた「セルアニメ」というやつでした。セルアニメは日本で戦後に取り入れられて、デジタル制作が本格化する1990年代まで主流だったんですね。ちなみに『サザエさん』は2013年までセルアニメだった。なので、上の作品を見てもそんなに違和感ないんじゃなかろうか。

ただ、戦前の日本ではセルロイド板が超高かったんです。だから日本ではあんまりセルアニメが作られなかったんですね。

では、どうやって作られていたのか。紙に描かれていたんですね。例えば戦後にカンヌを獲り、ピカソに絶賛されることになる大藤信郎は千代紙を使って作品を作っていました。以下がデビュー作の『馬具田城の盗賊』

大藤信郎はこのほか、影絵、セロファンなどを使ってアニメを作っています。こうして低予算でアニメを作っていた、というのが戦前のアニメ業界です。

もちろん予算があれば、毎回セルロイド板で作るんですが、なにせこのころの日本のアニメ制作は「家内制手工業」。フライシャーやディズニーとは違い、基本的には個人で作るものだったんです。

軍事利用されるマンガ・アニメ

めっちゃ怖いプロパガンダポスター

では、ここからが本題。太平洋戦争に突入してマンガ、アニメはどのように変わっていくのでしょうか。まずはマンガ業界からみていきます。

軍部の校閲により出版業界が下火に

ビゴー『明治時代の出版統制』

出版は太平洋戦争のアオリを大きく受けた産業の一つでした。「出版統制」があり、本を出す前に軍部のチェックが入るんですね。思えば、江戸時代も明治時代も出版統制があったわけで、これは本好きゆえの宿命なのかもしれません。

日本軍に不利になることはもちろん、おちゃらけた内容もダメ!っていわれることがありました。『でんじゃらすじーさん』とかもう完全にアウトですね。『ボボボーボボーボボ』もダメでしょう。

そんななか出版社自体がバタバタ潰れます。つまり太平洋戦争下ではマンガ業界自体が縮小するわけです。

『のらくろ』の退役と、『フクちゃん』の潜水艦造り

フクちゃん

そんな時代の影響をガッツリ受けたのが『のらくろ』です。人気作品ですが、まぁワンちゃんが大尉やってるので当然怒られちゃいます。

それでのらくろは設定を変えるしかなかった。退役して満州開拓!とか軍部が好みそうなやつにシフトしますが、これも「貴重な紙資源を使うな!」と怒られちゃうんです。それでとうとう1941年に連載は終了となります。

そんなのらくろが怒られている最中に出てきたのが、東京朝日新聞の四コマ『江戸っ子健ちゃん』。いわゆる『サザエさん』みたいな一家もの。新聞四コマの覇道です。ただ主人公ではなく、ここでは養子のフクちゃんが人気になります。

それでスピンオフとして『養子のフクちゃん』を出しますが、お金持ちの養子ということであんまり人気が出ない。今だったら人気になりそうですが、当時は日本全体が貧乏ですから、リアリティがなかったんだと思います。

それで設定を変えて『フクちゃん部隊』として発刊された。かわいい!個人的にこの「たぶん二度と再現できないフォント」が大好きです。

横山隆一『フクちゃん部隊』

これが人気になり「フクちゃん旋風」が巻き起こるんですね。すると当然、軍部はそこに目をつけるわけです。「フクちゃんに戦争意識を高めてもらおう」と考えた。

それで、できたのがアニメ『フクチャンの奇襲』と『フクちゃんの潜水艦』だ。タイトルがハンパなくおっかない。

また、作者の横山隆一がジャワ島で敵から奪った戦闘機の機体にノーズアートを描いたりしている。これが大好評だったというから、ほんとうに怖い時代でした。

機体にフクチャンを描く横山隆一さん


こうしてフクちゃんは、その人気ゆえに戦争意識を高めるために使われてしまうんですね。

ただもちろん横山隆一や東京朝日新聞を責めてはいけない。マンガに限らず、当時のクリエイターは日本軍に逆らって仕事ができない時代だったんです。だから、フクチャンというキャラクターは本当に日本を代表するほど偉大だったんだな、と思います。

ただフクチャンを見ると、そのおそろしさとクリエイターの息苦しさが伝わってくるようで、めちゃめちゃつらいです。辛いのですが、こういう時代もあったんだよ、という意味では本当に大切な作品なんだと思います。

とにかく影響力が大きかった戦時中のセルアニメ

ディズニーが描いた日本軍

では、太平洋戦争中のアニメーション業界はどんな感じだったのか。ぶっちゃけ調べる前は「武器作んなきゃだし、軍人食わせなきゃだから、マンガと同じく後退したんだろうなあ」と私は思っていました。

しかし、どっこい。意外なことにアニメ業界は戦時中に進化していくんですね。セル板が超高くて日本人には買えなかった、というのは先述しましたが、なんと軍部が膨大な予算を割いてアニメを作るようになります。その結果、セルアニメが次々に生まれるわけです。

今のほうがピンとくるかもですが、アニメの影響力ってのはハンパない。その理由はいろいろだけど「受動型のコンテンツだから」ってのが大きいと思います。この話は本筋から逸れるんでここでは割愛するが、また今度じっくり書きたい。

とにかく戦時中はその影響力ゆえに国内外でアニメーションが軍事利用される。実はあのディズニーでさえ作っていて「ドナルド・ダックが日本兵をフルボッコにする」みたいなのをやっていた。

ここで日本兵は「姑息な集団」として描かれます。「日本兵は敵を後ろから撃つのが得意なんだ」と喋りながらジャングルの奥地でメガネかけて潜んでるわけですね。やっぱ日本人ってメガネなんだね。

これと同様に、日本でも主に海軍省主導で戦争意欲を高めるアニメ映画を作っていた。先述したフクチャンもその1つだが、見ていただければ分かる通り、しっかりしたセルアニメ作品なんですね。

皮肉にも、日本のセルアニメの萌芽は戦争アニメで生まれたわけだ。海軍省の予算があったからこそ、本格的なアニメーションが作られたわけです。

なかでも傑作と名高いのが、瀬尾光世監督がつくった藝術映画社の「桃太郎と海鷲」、そして続編となる松竹の「桃太郎 海の神兵」です。いやはや、とんでもなくリアルな仕上がりになっております。下にYouTube動画を貼ります。

これだけアニメ技術が発達した今見ても、素晴らしい作品だと思います。まず前者が37分、後者が74分という長編が当時は画期的でした。それまで10分程度しか作れなかったんですね。それだけじゃなく、ディズニーくらいぬるぬる動く、ブレはあるけど、相当な作画枚数なんじゃなかろうか。

この作品は幼いころからディズニーアニメを見倒していた手塚治虫が「ついに日本もこのレベルまで来たか」と感嘆したレベルでした。

冒頭に「少国民へ」と文言が出てきます。少国民とは子どものことです。その通り、この時代の戦争アニメはほとんど子どもに向けて作られたものでした。

戦争を知って、やっと平和がわかる

ドーレミーファーソーラシードー♪

「海の神兵」の製作費は27万円。1945年の1万円が今でいう約1900万円ですので、約5億1300万円を投じたことになります。その後の映画でいうと宮崎駿監督の「ルパン三世 カリオストロの城」が5億円なので、それくらいです。ちなみに「崖の上のポニョ」は34億円です。

「なんだ、そう考えたら意外と安いじゃん」と思うかもしれません。しかし戦争の真っただなかであることを忘れてはいけない。何もかも戦争にとられて、庶民がみんな白米すら食べられない時代です。

そんなときに、数億円かけて「戦争ってかっこいいんだぞ」と。もっとストレートにいうと「人を殺すのって、こんなにかっこいいんだぞ」ってことを訴求し続けたわけですよ。これがどんなに悲しいことか。

たぶんお父さんとかが息子の手を引いて映画館に行って「観ろ。これが日本軍だ。この武器で鬼畜米英を殺すんだ。かっこいいだろう」なんて、言うんでしょう。で、子どもは分かんないから「うん。ぼくも早く大きくなって兵隊になりたいなぁ。潜水艦の魚雷でアメリカ兵をやっつけるんだ」と目を輝かせるわけです。

私はもうこの光景を想像するだけで「ドーレミーファーソーラシードー♪」が鳴り止まない。迷子になってアップリケのついたきんちゃくをその場において「おかあさん…‥」となっている子どもを思い出すんですね。

「それがどれだけ幸せなことなのか」を実感するわけです。親と人殺しの話をしなくていい。空襲に怯えなくていい。無理に人を嫌いになる必要もないし、敵を作らなくていい。これってやっぱり普通そうに見えて、幸せなことなんだと、再確認できます。

自由に作れるからこそ「人を生かすコンテンツ」を

そして当時のアニメやマンガを体験していた子どもと同じくらい悲しいのが、他ならぬクリエイターたちでしょう。

海軍省から「子どもが戦争に憧れを持つアニメを作ってくれ」といわれる。「お前の人気キャラを敵軍の戦闘機に描いてくれ」といわれる。それを断ったら、もう日本でアニメを作れなくなるわけです。

私だったら「え……えへへへへ」とこれ以上ないくらい微妙な笑顔を浮かべて依頼を受けるでしょう。だってまだ仕事してご飯食べたいもん。

でももっと地獄なのは受けた後で、ずっと戦争礼賛の作品を作らなきゃいけないわけですよ。何より作った後に「戦争に加担した」という刻印を押されてしまう。作品は作者を表すものですから。これはかなり苦痛だったと思います。

いや、当時はなんてったって総力戦。「戦争は素晴らしい。この素晴らしさを伝えたい」と思って作っていたかもしれません。だとしても、私は「何やってんだこいつ!」とは言えない。

調べているなかで、こうした作品に呆れたり、作者に怒ったりする言葉を見ることがありました。そう思う気持ちもわかる。わかるけど、やっぱ絶対に責められないですよ。だって「常識」が今とはまったく違うもん。

そんな辛い時代のクリエイターのことを想像していると、また「ドーレミーファーソーラシードー♪」が流れるわけです。今度は番組ディレクターの顔が思い浮かぶんですね。子どもが「おかあさん……」ってなってるとき、どんな顔をしてるんだろうか、と。

もしかしたら「撮れ高ゲット」的なにんまり顔をしてるかもしれない。いや同情して泣いてるかもしれない。もしかしたら「本当は助けたいけど、番組的にはおいしい……」みたいな微妙な顔をしてるかも。いや、もはやプロ過ぎて真顔かも、と。まぁいろいろ思うわけです。

でもやっぱり最後は「子どものすこやかな成長を撮れるのっていいなぁ」と。「この、優しいコンテンツを作れる時代に生まれてよかったなぁ」と、しみじみ感じます。ほんとに。柴田理恵の泣き顔をワイプで抜けてよかった。戦時中ならアウトですよ。

「観てる人にどう感じてもらおうか」ってことだけを考えてモノを作れるってのはこんなに幸せなことなんですよね。今これnoteで書いてますが、こんなに発表の場がたくさんあって、めちゃくちゃ楽しい時代じゃんね。

だから、せっかくだったら「人を生かすモノ」を作りたいな、と。こう、おもろいのを作りたいな、と。もちろん悲劇をディスってるわけじゃない。「三大悲劇はあるのに三大喜劇はない」のでわかるように悲劇ってのは昔から写実的ゆえに芸術点か高くて高尚なものですから。私もアンハッピーエンド大好物です。

ただ、せっかくだったらちょっとクスッと笑えるのを作っていきたいなぁ、と思います。戦時中のマンガ・アニメを読んだり、観たりすることで、もはや「平和の大切さ」を超えて、なんか「ポジティブに生きることの貴重さ」まで感じられるんです。

終戦当時10歳だった人はいま87歳くらい。もうすぐ語り部がいなくなっちゃういまだからこそ、戦時中の作品はぜひ体験してもらいたいなぁ、なんて思います。

そして周りにご存命のおじいちゃん、おばあちゃんがいたら、ぜひ当時のコンテンツの話を聞いてみてほしい。そしてコメ欄で教えてください。

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