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音楽の「客観」って何なのかなあ

僕のこれまでの音楽史の記事や図表を読んでいただいた方はお分かりかと思いますが、その取り扱う範囲は主に「独・仏・伊」中心の「西欧音楽史(クラシック)」と、「英・米」中心の「ポピュラー史」でした。

それを「音楽史を "すべて" 繋げてみた」「各ジャンルを並行して扱う」「ミクロよりマクロ」などと表現してしまったことで、僕の問題意識とは別の部分で引っかかる方がいらっしゃるようで、「客観性を目指している割に西洋中心すぎる」「民族音楽や非西洋音楽が取り扱われていない」というような感想を散見しました。

たしかに、そういった視点も非常に重要だとは思います。ただ、僕の問題意識とどうしてもズレる部分があって、うまく反論できないままモヤモヤしてしまいました。しかし「ジャンルを超える」というような僕の文字上の「問題提起」と照らし合わせれば、西洋中心批判はもっともなご指摘でもあり、だがこの違和感は一体何なのだろうか、と非常に考えました。

その中で、僕の中にぼんやりと1つの仮説が思い浮かんだので、それを書いてみたいと思います。(※データがあるわけでもなく僕の勝手な推論ですのでその点ご容赦ください。)



それは、やはりみんな「"自分の分野""それ以外"」という二元論の区別が無意識下にあるのではないか?ということです。

たとえば、ロック系の人々は、自分たちの「ポピュラー音楽」と、それ以外の「クラシックや伝統音楽、民族音楽、非西洋音楽」という括りの感覚がある。

逆に、クラシック系の人々は、自分たちの「西洋芸術音楽」と、それ以外の「ジャズやロック、ポップス、民族音楽、非西洋音楽」という括りの感覚がある。

そういう視点があるから、僕が取り扱った範囲について「幅広く扱おうとしている割に不十分だ」というような中途半端さを感じ取られるのかもしれない、と思いました。


ロックの人々から見ると、自分たちの「向こう側」の分野について「クラシックや古代まで西洋のことは細かく書いているくせに、民族音楽や非西洋音楽のことが入っていない。」

クラシックの人々から見ると、自分たちの「向こう側」の分野について「ジャズやロック、ヒップホップなどのアメリカ大衆音楽のことは細かく書いているくせに、民族音楽や非西洋音楽のことが入っていない。」

というような見方になるのでは?と。



グローバリゼーションが進み、西洋中心主義の反省は広がっています。民族音楽の研究や、視点の転換はもちろん必要だとは思います。

ただ、少なくとも今現在の日本の音楽状況を鑑みて僕個人の感覚として、そっちに発想を飛ばす前に、まず繋げるべきなのが「クラシック(=西洋)とポピュラー(=英米)」だろう。と思うんです。この視点が西洋中心なのは重々承知ですが、現実として、そのように洗脳されて教育を受けているテーブルの上で文化を構築して嗜んでいるわけですから。

いろんな書物や資料を読めば読むほど、クラシック評論とポピュラー評論の向いている方向性が違い過ぎて、そこが自分にとっては一番の大問題に感じるんです。

前提としてそこをまず繋げて共有しておかないと、ただ不毛に分断が加速するだけで、どんどんバラッバラになってしまうんじゃないか、と思ってしまいました。これを介さずにそれぞれの持ち場から非西洋音楽へだけ視点を広げてみたところで、一見客観性を得たように感じても結局は自分の立場の補強になるだけで、すぐに問題点にぶつかるというか、限界が来そうな気はしますけどね。

しかしまあ、歴史というのは客観性は存在せず、つねに一定の視点から切り取られて構成された物語でしかないのですが、そのうえでどっちを向いて何を取捨選択し、何を重要とするのかって、ものすごく難しい問題ですね…。

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