見出し画像

「 理解する 」という概念

クオリアと人工意識からの思考

2022/1/24

・動物は意識があるので理解できる?
・犬は人間の言葉を理解している?

否、「人間の言葉の響きである音と動作を紐付けているに過ぎない」とするならば、犬は人間の言葉を理解しているわけではない。繰り返しによって「おすわり」という音と動作を結び付けている。

繰り返しによって「音と動作を結び付けること」が、
そもそもが「理解」ではないのか?

赤ちゃんは、食事をするときに、親が「 まんま 」と繰り返すことによって「 食べること = まんま 」という理解に至るはずだ。食べる動作を音と紐付けて理解して、その言葉を使って話せるようになる。

だとするならば、やはり、犬も人間の言葉を理解していることになる。

繰り返しによって、音と動作を結びつけることができることを理解とするならば、人工知能も、理解できる。

人工知能は「 音と動作を映像としては理解できる」と言った方が正確である。人工知能は、プログラムなので、体を持たないから、自分の体を動かすことができない。自分の体の動きと音を紐付けて理解することはできない。動作は自分ではなく、他の何かの動作を「 映像として理解する 」に留まる。それを理解という範疇とするのかは、疑問が残るかもしれないが。

人間を含む動物は、赤ちゃんや犬は、自分の動作 = 行動を通して、言葉を紐付ける。音と自分の行動によって、理解する。あくまで「 主体が自分の行動にある 」から、それと「 言葉を紐付ける 」ことが容易になる。

人工知能は、主体がない。体もない。行動もない。

でも、たくさんの情報によって、たくさんの情報を、映像を学ばせることによって「 食事 = 人間が料理を食べる様子 」という映像を判断できる。音と動作を紐付けることができる。人工知能に食事している映像を選ばせることができる。映像を選ぶことは、赤ちゃんや犬にはできない。赤ちゃんや犬は自分が主体となって「 食べる 」という動作をすることと「 食事 」という言葉を紐付けているからだ。

赤ちゃんや犬は、海に入って、冷たい水で、動く水で、しょっぱい水で、という体験を通して、海を理解する。海は、地平線に広がる景色でもなく、沈んでいく太陽の手前にある広い水でもない。人工知能は、景色や水を映像を通して理解する。

人工知能は、あくまで主体を持たない。人間の扱う機械であり、道具である。赤ちゃんや犬は、主体を持つ、生き物である。

人工知能は、主体を持たないので、自分が理解することはできない。人間が見たときに、音と動作を紐付けて「 理解 」しているように、振る舞うことはできる。それは、あくまでも、そのようにプログラミングされているに過ぎない、人間によって。

そもそも、理解の定義自体が難しい。

私たちは、本を読んでいても、わからないことがある。それは、日本語が難しい場合もある。状況が想像できなくて、自分の経験の範疇にない場合もある。言葉や経験が、自分の理解を超えていると、日本語の文章でも、わからない。

理解とは、主体を前提とする。
そして、自分の体があることによって、動作を通して、音 = 言葉を紐付ける。
体験である。

人工知能は経験はできる。たくさんの情報によって知識をメモリに記憶して判断できる、それが経験というものだ。「 経験がある 」ということは、「 主体がある 」と捉えることもできる。一方で、人工知能は、体験ができない。体がないから、経験によって得た知識で判断しても、それを形に、行動に移せない。体験して主体化できない。

・狭義の意味においては、経験は主体を必要とする、生物である。
・広義の意味においては、経験は主体を必要としない、人工知能でも可能だ。
・狭義の意味においても、広義の意味においても、体験は、主体を必要とする。

人工知能は、主体性と、体験するための体を持つことで、初めて、機械の枠を出て、生き物に近づく。人間への道程は、いくつものイノベーションが必要であろう。


#湯浅探偵団
#日記
#エッセイ
#コラム
#ブログ
#人生
#生き方
#ライフスタイル
#毎日更新
#毎日note
#日常
#人工知能
#AI
#クオリアと人工意識
#読書感想文
#推薦図書

この記事が参加している募集

あなたの琴線に触れる文字を綴りたい。