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(定価1万円の本)【本要約:長編】成功の実現


2021/9/24

人生礼賛

幸福は、一つの想像のようなモノである。

どんなに教養があろうとも、人生には自分の知っている以上の大きな事実がある。

生きている現実の中に生存と生活がある。

「生命の生存」を確保する「生き方」
「生命の生活」という「活かし方」

私たちは、肉体本位に生活することばかりを健康獲得の手段として考えており、生存について考えていない。

生命

生命が生存しているから、日常の生活ができる。

命を完全に生かすことが、生命の生存を確保する。

生命とは心と体が一丸である以上、生命の生存の確保には、
心と体の両方を自然法則に背かせないようにする。
自然法則に背かないようにするには、心の態度を積極的であらしめる。
積極的であらしめるとは、尊く、強く、正しく、清く生きる。

体は、
常に訓練的に積極化するということを、心がける。
訓練的に積極化するというのは「習うより慣れろ」という人間の生命に存在する自然性を応用する。
習慣化によって力強い肉体を作る。

生活

生活は、心も肉体もその可能率を促進する。

心を使用するときには、必ず精神を統一する。
肉体は、抵抗力や耐久力を強くするために、訓練的に積極化する。

以上の『心身統一法』を実行することで、心と体が期せずして統合統一され、「生命要素」が高まり、健康・運命が向上する。幸福な人生ができてきて、私たちは本当に生きがいを感じられる。

『心身統一法』の教義は、健康と運命とを完全にする生命要素を作ることを根幹にしている。
生命要素とは、健康や運命を両立的に完成させるのに必要な生命の力である。

生命の力
体力
胆力
判断力
断行力
精力
能力

①生命力
正しく生きる方法を知って生きたら、楽しい生きがいのある人生を送ることができる。生き方ひとつで楽園になる。

②体力
やたらとヘンテコにならない体

③胆力
神経過敏でない、心の強さ

④⑤判断力と断行力
判断力と断行力は、運命を築く上で1番必要な要素である。
自分のことは自分が1番よくわかるから、自分1人で考える。

⑥精力
・肉体的精力 = 性欲
人倫の大本であるホルモンがが己の心から消えたら、死に向かって生きているようなモノだ。人生は死ぬまで色気のモノである。
・精神的精力 = 好奇心
克己心と忍耐力

⑦能力
人生という現実の世の中に生きる自分を本当のリアリストとして生かす。

「あっそうか」と、気がついたときが、新しいバースデイである。自己に新しい180度転換を与えるバースデイを作るかどうかは、自覚次第である。

真の積極

人生において、積極的精神以上に大切なモノはない。

健康・長寿・運命・成功、人生の一切合財 ( いっさいがっさい ) のすべてが積極的精神で決定される。心の態度が、積極的だと、命の全体が積極的に運営される。

「健康や長寿には肉体」を、「運命や成功には学問や経験の豊富さ」を必要に考えるが、それは、第二義的である。第一義は精神の態度である。

心が積極的であれば、人生は豊かになる。

①信念

積極的精神を作る心得は、自分の心を強く持つ努力をする。

「万物の霊長たる自分には、人間の生命に生まれながら与えられている天賦のものが発現できないはずはない」という、敢然たる信念が断固として必要である。

正しき勝利は正しき出発において既に作られている。
ことわざ

「自分は、生まれながらに与えられた天賦の積極的精神がある」という、信念を持つ。

②心の鏡

日常の人生を生きる際に、健康に対しても、また運命に対しても、どんな些細な事でも、「今、現在の自分の心は積極的であるか?」と、常に問い続ける。少しでも自分の心の中に消極的なモノを感じたら、すぐに心の中から追い出す。自分の心の汚れを清くすると同じことだ。

鏡が汚れて曇っていたら、鏡の曇りを取らないと、モノが映らない。心が消極的であれば、心の鏡を曇らせていることになる。心の中の鏡を、いつも、ピカピカにしておく。

③他人の消極

他人の言葉や行動の中の消極的なモノに自分の心を同化しない。
自分でも気付かないうちに、他人の消極的な言動に引っ張られてしまう。

④取り越し苦労

取り越し苦労を断じてすべからず。
自分のことを心配して、苦労しない。
心配しても、結果は変わらない。

⑤本心良心

どんなときも、本心良心の発動した言動は、やましい気持ちがないから、恐れることはない。
誠心誠意とは、本心良心が、大根大本となって現れたときの状態である。

言葉

できるかぎり努めて気分を明るく朗らかに生き生きとして何事にも応じる。

言葉に気を付ける。
言葉と気分は直接関係がある。
絶対に消極的な言葉は使わない。
否定的な言葉を口から出さない。
悲観的な言葉は自分の中にはないと考える。

消極的な言葉が充満している中に生きていると、消極的な言葉に感化されてしまうのが人間なのだ。周りがどうあろうと、自分自身は絶対に消極的な言葉を使わないことだ。

そのためには、不平不満を口にしないことだ。不平不満が心の中にあると、どうしても言葉が積極的にならない。

不平不満は、自分の外に目を向けているから生まれる。

人生は心ひとつの置きどころである。どんなことでも、感謝を先にして、喜びで迎えたならば、そこは、楽園であろう。

極論すると、病気でも、不運でも、それを感謝と喜びに変える。

病気や不運の原因は、自分にあるのだ。自分が生きる上で何が誤りがあったため、その結果の現状である。

「蒔かざれば花咲かず、実みのらず」

天には私たちが使う言葉がないから、事実をもって、私たちに自覚を求める。

万物の霊長たる人間に生んでやったのに、万物の霊長たる人間の生き方をしていない。「お前の生き方は間違いがあるから、その間違いを自覚しなさい」として、病気を下されたんだと考える。

どんなわかりにくい道でも、教わった通りに歩き出せば、例え迷いながらでも行きたい場所には行ける。だけど、道を教わった歩き出さなかったんじゃ、いつまでたっても、「わかった」と言うだけで、本当にわかったことにならない。

心の態度を積極的にするということを実行する。
自分の心の置き方を変えるだけだ。

肉体

肉体に関しては、自然科学の進歩と同時に、便宜の多いデータや文献や証明があるが、心の問題に関しては、何のデータもない、心の問題は科学の問題じゃないからだ。

私たちは、体のことが大事だから、体のことを考えている。大事な体を考えるだけで、「考える心が大事だ」と気付かないのか。

人間の生命が体だけでなく、心と体が一丸である以上、体も心も大事である。
「心を本当に大事に思う」という心は、どういう心なのか?

人間は「考えまい」とするほど考えてしまう。

「人に教えを受けよう」としてばかりいると、いつまでも救われない。自分の心を済度することは、「自分で考えよう」という意識である。自分が万物の霊長たる人間の一人であることを、自覚する。

体は自分の意思通りに動かすことができるが、心だけはどうしても、自分の思うようにならないのが、人生最大の悩みである。

心の状態が積極的でないと、その結果は、どんなに学問しようが、どんなに名誉や地位を高めようが、金ができようが、健康を運命も完全にならない。

「線を引く」というような簡単なことも、心が落ち着いている時は容易に定規のようにまっすぐに引くことができるが、心が落ち着いてないときはガタガタになる。

もしも、人間が、人間の心をコントロールできれば、哲学も宗教も、この世に生まれはしない。人間を考えるのにもっと楽に考えられるなら、宗教も哲学も不要だ。

悲しいときに、心まで悲しむ必要はないだろう。

身に病ありしといえど、心まで病ませるな。
運命に非なるモノありしといえど、心まで悩ますな。
ヨガの哲学

「人間、この世に何しにきたか考えたことはあるか?」

人間とは、この世の中に、宇宙本来の面目である進化と向上に順応するべく、出てきた。

【心が積極的でなくなる3点】

①物質文化の時代に生きているために、どうしても心を疎かにして肉体ばかりを考えて毎日を生きてきた。その結果、気付かないうちに、心の奥の潜在意識の中に、消極的な観念要素が溜まった。そして、心のアンテナである感応性能が機能しなくなり、意志力が出なくなった。

②あるべき価値判断ではなく、感情に任せて生きていた。

③物質文化の中で、物質本位で生きていると、神経系統の生活機能=ボルテージ・バロメーターが下がった。

考えなくていいことを考え、思わなくていいことを思う。
考えなくていいことを考えなければいけないことのように考える。
思わなくていいことを思わなければいけないように思う。

そんな風に心を使っているから、消極的になってしまう。

「心が積極的でなくなる3点」を是正するためには、『観念要素の更改法』と、『積極観念の養成法』がある。

観念要素の更改法

「いろんなことを思ったり、考えたりするのが心だ」と思っている。

心がいろんなことを思ったり考えたりするのは、潜在意識の中に、思わせること考えさせることの素が入っている。その素が材料となって、心の表面にある実在意識が働くからだ。

潜在意識の中にある観念要素が、人それぞれで異なる。

物質文化の社会では、心の中を常に手入れしなければ、潜在意識の中が消極的観念で充満してしまう。

生きる正しい方法を知って生きたら、人生ぐらい愉快な、人生ぐらい恵まれた、人生ぐらいありがたいものはない。

心の人生の感じ方次第だ。そのための心の洗濯が、『観念要素の更改』である。

ロックフェラーくらいの超大金持ちでも、やっぱり人生苦がある。生きる正しい方法を知って生きると生きないでは、それがどれだけ大きくその人間の幸福をわけてしまうかわからない。

よく考える。自分のことは自分が考えれば1番よくわかる。

毎日、風呂で肉体の垢を落とすように、眠る前に、心の中を洗濯する習慣を付ける。

夜、人間の眠る前の心は、特別無条件同化暗示感受習性という状態である。

眠る前に考えたことが、潜在意識に刻まれる。

現在かくある原因は、自分じゃ気が付かないけど、心の中に与えられた、知らざる間に自分の心を同化させている暗示のおかげである。

眠る前は、積極的な状態で心を堅持する。思えば思うほど楽しく、考えれば考えるほど嬉しいことだけ思ったり考えたりして眠る。毎晩、毎晩、繰り返すことで、どんどん心の中からキレイに洗われてくる。

睡眠の前後に鏡の前で「信念が強くなる」「信念が強い」と言う。
信念に寝て、信念に起きて、信念で生きる。

昼間は、明るく朗らかに生き生きとして勇ましい気持ちで過ごす。

言葉は言ってしまったときに、音響はなくなっても、波動が残る。

自分の使っている言葉で、自分の気持ちが損なわれたり、高まったりする。

積極的な言葉を使ったとき、直接的に実在意識の受ける影響は非常に大きい。

感謝の言葉を言ったときには「快さ」を感じる。その感じるというのは、実在意識が感じている。実在意識が、潜在意識へ直接的に影響して、潜在意識が実在意識と同じような気持ちになる。そして神経系統の生活機能も同じように良くなる。

痛いときに「痛い」と言うのがいけないんじゃない。
痛いとき、「痛い」と言った後に、それから後を、自分が考えなきゃいい。
「痛いのがもっと痛くなるかもしれない」とか、消極的に考えることがいけない。

私たちは、現在、生きているのは、神経系統の生活機能のおかげであることを忘れ、神経系統の生活機能のはたらきを悪くすることを無意識にやっている。

常に積極的な言葉を使う習慣を作る。
習慣になれば、努力する必要はない。

今日一日の人生の生きるときに、「お互いの気持ちに勇気を付ける言葉」「喜びを分かち合う言葉」「聞いていて何とも嬉しい言葉」を、お互いに言い合う。

言葉はおっかないものだから、できるだけ晴々として、言いながらも自分の気持ちが積極的になるような言葉以外は吐き出さない。

言葉は、言霊というのが本当である。言葉というものは魂から出てる叫びだ。

朝起きて、「ありがとうございます」と笑顔で天に感謝
夜寝るときも、「ありがとうございます」と笑顔で天に感謝

「生きていることは当たり前」、「目を覚ますことは当たり前」だと思ってしまう。当たり前ではない、あるとき、目が覚めないときがくる。

人間は、やっぱり、「終始感謝の気持ちを、頭の中に持って生きる」ということである。

そうすると不平不満がなくなる。

「箱根山、駕籠に乗る人担ぐ人、してまた、その草鞋を作る人」
この世の中は持ち合いである。
お互いみんな世の中は助け合い。

人間の世界には、憎む相手はないはずだ。すべては、みんな自分と同じに考えなければならない。もしも、「人が自分のことを憎んでたらどうか」と考えてみる。「憎まれてありがい」となるか?

だから、どんな場合があっても、「すべてが自分と同じ人だ」と思って、生きている命に尊敬を払って、人生に生きる。

自分の気持ちは、自分の命を守ってくれる心の中から出ている、尊いものなのだ。常に、にこやかな人生に生きて、何事に対しても感謝を先にして、そして、喜びの人生に生きる。そうすると、世の中が変わる。「本当に明るく嬉しい世の中だろう」という風に、人生は心ひとつの置きどころ。

現代のような摩擦と刺激の多い時代に生きるとき、ストレスの刺激で、原動力が出てくる1番大事な要素である神経系統の生活機能が下がってしまう。

人生を、ただ生きられるがままに生きていくと、生きている限りは防ぐことができない、感覚や感情のショックを心に受けてしまい、心の再反射作用によって、健康を害してしまう。

心の弱さが、健康の弱さにつながっている。
健康には、体ではなく、心が大切である。
心に起こった感情の変化は、体の変化につながっている。

「嬉しい」とか「恐ろしい」とか「悲しい」とかいった負の感情によって、目に見えるほど体に変化が、現れる。喜怒哀楽の感情が肉体の内部にどんな変化を及ぼすかは自明だ。

神経系統を整えるには、クンバハカである。
感覚・感情にショックを受けたら、肛門とお腹と肩を使う。肛門を締め、お腹に力を込め、肩を落とす。この3箇所がそういった状態にされたときに、初めて、「感覚・感情の刺激衝動が、心には感じても、神経系統に影響を与えない」という効果がある。
普段の習慣として、1番大切なのは、肛門をしょっちゅう締めることだ。
肛門が締まっていると、何とも変化は来ない。そして、さらに深呼吸を加える。深呼吸は、息を吸うときよりも、出すときの方が肝心である。呼吸は出す方が先に書いてあるように、最初に肺の中の悪ガスを出すことが大事である。

我とは何ぞや

これまでの『心身統一法』は、「我とは何ぞや」を、最初に正しく自覚されてから組み立てられたモノだ。

正しい順序では、「我とは何ぞや」を先に正しく自覚してから、『心身統一法』を学ぶ。

それだと、難しいので、順番を逆にしてある。

「わかった」というのは、人為的承認であり、人間の意識的努力によるモノだ。

「自覚」というのは、自然承認であるから、理屈を考える必要もなければ、理由を説明される必要もない。自然と「なるほど」と心がうなずくのが自覚である。

宇宙の真理は、最初は、理解から入らなければならない。

しかし、理解を理解のままにしておくのは、人為的承認だから、信念化しない。

自覚になると自然承認だから、自然と、信念となる。

批判せずに、我れ考えずに、ただ言うがままを「わかる」とか、「わからない」とかじゃなくて、「そのまま受け入れる」という心構えである。

恐れを感じる人生には安心が来ない。
安心を感じない人生だったら不安である。

「我とは何ぞや」
体が自分じゃない。
心が自分でもない。
心や体が人間ではない。
心も体も生きるための道具である。

四季が循環して、花が咲き散ってまた咲くのは、宇宙の中に生生化育のエネルギーがある。
※生生化育 … モノを生み出し作り上げる「気」がある。

生生化育のエネルギーである「気」が、人間である。
宗教では霊魂と言う。
霊魂という見えざるひとつの気体、これが自分なのだ。

だから、「自分だ」と思っていた肉体は、自分ではない、自分という気体が生きるための必要な仕事を行う道具である。

人間だけが「肉体を自分だ」と思ってしまう。この考えを、本能階級的自己意識という。

人間以外には、理性がないから、「自分の肉体を自分だ」と思う自己意識もない。

本当の自分は、見えない気である。

自分でない「肉体を自分だ」と思ってしまうから、体調が悪いときに、「自分の体調が悪い」と考えてしまう。しかし、本当は、私たちが生きるために必要な道具の一部が悪いのを、心が私たちに報告しただけなのだ。

道具が調子悪いと感じただけだ。

「隣の人の体調が悪い」のと同じような気持ちで、自分の体調を捉えていれば、早く治る。それを「自分の体調が悪い」と思ってしまう。

直接的に、自分が病気になっているんじゃない。自分の道具の調子が悪いだけなんだから、道具の心配をしないで、道具を治す方に力を注ぐ。

心配がなくなったら、自然と病気は治る。
考えないと、忘れることで治る。
人間の健康の秘訣である。

私たちの正体は、「霊魂というひとつの気体である」という、正しい自己意識を持ち、常に自分から失わないでいると、恐怖が抑えられ、勇気が出てくる。

人間の恐怖心は、肉体を考えるから生じる。怪我しないか、病気しないかと。肉体を考えないときは、自分の存在の尊さに気付く。

体は気が宿る入れ物だから、物質は時がくれば消滅するようにできているから、消滅を死と名付けているだけだ。気は体から離れるだけだ。

そもそも、気が生きるために、身体をこしらえ、心をこしらえただけだ。

自分は今まで「肉体だ」と思ったがそうでなく、自分は今まで「心だ」と思ったがそうではなく、見えない気体、霊魂が自分だ。

そう考えたとき、もう、今までとは全然違った気持ちで、自分の肉体や心を考えることができる。客観的に自分の肉体や心を考えると、健康も運命もよりよい方面へはたらきだす。

自分をひとりだと思っている。ところが、もうひとりの自分がいる。

もうひとりの自分が本当によく考えられるんだから、もうひとりの自分に考えさせる。もうひとりの自分が良い悪いは、すべてお見通しである。自分でないものに自分だと思って考えさせてるから、いつまで経っても、自分の本当の考えがでない。もうひとりの自分に頼む。頼んで、すべて考えてもらう。

自分の感覚で認識しえる存在を「自分だ」と思い込んでいる。

ありのまま

「正しいことをしている人間に、正しからざる出来事の生ずるはずはない」という信念を持つ。

何も考えない、無我無念

乞食をしても、「この仕事をすることがどんなに楽しみだろう」という気持ちの方が、心の中のすべての気持ちを打ち消す。

あるがままに生きる。

人に不親切にするより、親切にした方がいい。
「親切にしよう」というのは親切では無い。行為の結果が、親切であったなら親切である。

ありのままに我ある世とし生きゆかば、悔いも恐れも何物もなし。

霊魂のまんまの人生に生きていくとき、そこに何にも悔いも恐れも、全く心を動かすモノはない。
霊魂は、そのまんまで、何にもそこに心を煩わすモノもなく、恵まれもしない代わりに、恵まれないという状態もない。ありのまま、そのまま、煩悶もなければ苦しみも苦労もない。

「心も体も道具で、道具をまとめて一つにして使え」というのが、『心身統一法』の根本原則である。

本当の世界は、人間の生まれたときと同じように無垢である。幸福でもなければ、不幸福でもなければ、不健康でなければ、健康でもない、そのまんまである。そのまんまが1番万全なパーフェクトな状態、満ち足りた状態である。何にも比較がない、比較するモノがないのが、1番正確な存在である。

本当に楽しく感じるときは、楽しい気持ちが湧いたときじゃない。楽しいという気持ちが湧いたときは第二義であり、本当に楽しい第一義のときは、楽しいという気持ちが湧かないで楽しい。「楽しかったな」と後から気付く。

心を使う

人間は、進化と向上という尊い使命を果たすべくこの世に来た。

身体を自分も思ってはいけない。体は、自分のモノであって、自分じゃない。

服は脱げるから、道具だとわかる。
体は脱げないから、道具だとわかりづらいだけだ。

自分の心身が、道具だということを理解していても、肉体に病気が出ると、すぐに「肉体が自分だ」と考えてしまう。その間違いは、心が積極的でないから起こる。心が積極的でないと感応性能が弱くなり、心が自然と肉体本位ではたらくような状態になる。

本当の自分は目に見えないからわからない。本当の自分は気で、霊魂である。空気が見えないように、気も見えない。

心が積極的になると、肉体から心が煩(わずら)わされなくなる。
心が積極的だと、肉体の変化に心が引きずられない。
心が積極的だと、モノゴトに集中でき、集中力している間は、肉体のことは考えていない。

悟りとは、即座に、もう何にも反対する気持ちが出てこずに、確固たる信念になる。

心を自分が生きるための道具として使わないで、心が使われている結果が、心配である。

心が使われていても、使われていることを知らなければ、わからない。自分を知らず知らずのうちに、心の奴隷にしているから、心配して悩んでしまう。心が肉体に使われているか、心が心に使われている。

心は思ったり考えたりする仕事のための道具である。
心を使いこなすのが、立派な人間である。
心を命の道具として使いこなす信念を持つ。

信念が強力ならば、否定的な、消極的な、悲観的なことは考えない。

心が、肉体の奴隷になっていたり、心の奴隷になっていたら、積極的にならない。「考えてはいけない」と言われると、「考えてはいけない」と考えてしまう。

人間の世界にだけ、進化と向上があるのは、理性があるからだ。

理性には、心を制御する機能がない。

「理性と本能」の「理性心と動物心」のバトルを、煩悶(はんもん)という。

煩悶していては、心がスッキリしない。

煩悶は知的な人に多い。

知らなければ、考えない。知らないことは、考えられない。

積極観念の養成

①内省検討
現在自分の思っていることや考えていることが、積極か消極かを厳粛に自分自身で判断する。
心で判断してはいけない、信念で判断する。

②暗示の分析
自分の行動の反省

反省するのは行動で、意思や思考の反省はしない。

③交人態度
消極的なことに、同情しても、共感してはいけない。

④苦労厳禁
人間は、苦労するのが当たり前ではない。苦を苦としないで、苦をなお楽しみにする。

積極観念の養成の実践

すべては信念である。

『観念要素の更改』と神経系統の生活機能の調節をやっていると、自然と『積極観念養成』が思い通りにできるようになる。

補助手段としては、積極的な人と交わる。積極的な人は、ポジティブな発言だから、自分との共感はないが、悲観しない。

心を積極化する、特別な心がけは、実在意識のすべてを、客観的に考える。

私たちは、すべての感覚・感情を、主観意識で思考している。その感覚・感情を、自分以外の人が感じているように、客観的に考える。自分のお腹が痛いのを、隣のおばさんの腹が痛いように感じる。
感覚・感情は、実在意識がそう感じるからそう思う。霊魂は、その事実は感じていない。「痛い」というのは、実在意識が神経を通じて実在意識に感じさせているから、思うだけで、感じなければ、思わない。

客観的思考が習慣化されると、自分の道具である心や肉体と、本当の自分を区分できる。

客観的意識で人生に生きてこそ、心の動乱が生じず、積極的な人生を生きられ、幸福になる。

原因と結果

運命や健康が恵まれていないのは、自分自信が人間でありながら、人間としての本当の生き方をしていない結果である。

原因がないところに結果はない。原因があったから結果がきている。

自分が蒔いた種に花が咲いてる。運命も健康も自己責任と考えることを習慣付ける。

失敗や間違いは、自分が、「自分の心に対する注意すること」を怠ったから、心自体が引き起こした。

メガネが曇っていたら、そのままにしておかずに、必ず拭くように、心をピンボケにせず、ハッキリした心を作る。ハッキリとは気を散らさないこと、心を解放して気を使うことだ。

煩悶・不安・心配が心にあると、100の力の心のうち、煩悶に10、不安に20、心配に30あると、残り40の力の心だけで生きることを余儀なくされたら、病気にもなる。

心がまとまらないと、集中できない。

集中してモノゴトを行う心がけをしていると、習慣化していく。習慣は、「習うより慣れろ」で、初めてのことも、どんな複雑なことでも、対応できるようになる。

【集中する生活を習慣化した結果】

面倒なことがなくなる、トラブルでテンパることもなくなる。
すること・なすことが、すべてが楽しみに振り替わっていく。
心に余裕が出てくる。どんなときでも、慌ても、驚きもしない、用事が多くても、忙しく感じない。
忙しいとは、気が散りすぎている状態である。

煩悶・不安・心配が心の中に溜まっているから、気が散りすやすい、自惚れているからだ。心には、消極的思考は、不要である。

『心身統一法』を実践していると、消極的思考は、自分が努力しなくても、心の中から消え失せる。それが自然現象である。

消極的思考がなかったら、どんな人間でも、人間のすることは、何でも、できるようになる。

心を使うとき、気なしに使わない。

①「意識を明瞭にして、ハッキリした気持ちを持つこと」を第一の心がけにする。
②正確に観念が集中する。
③精神が統一される。
【人間の心が行う注意という行為】
・無意注意 ( 他動的注意 )
無意識的に注意が振り向けられる状態
・有意注意 ( 自動的注意 )
自分が特定した事柄に向かって注意を振り向ける状態

有意注意力が欠乏し習慣化されてないと、長時間の集中ができない。

自分の心を常にハッキリ使う習慣を身に付けることで、本当の心意識が手に入る。どんな場合でも、自分の人生の出来事に、心配することもなく、懸念することもなくなる。

病気

治らない病気は、一生に一度しかない。
二度も三度もない。
二度も三度も死ねない。
寿命が尽きるときの病気は医者でも治せない。
しかし、その病気までは死なない。

人間死ぬときは死ぬから、生きている限りは、自分の生命は自分で守る。自分の体は大自然が創った。生きていく必要があったら生かしておいてくれるだろう、とにかく、自分の力を信じる。そういった積極的観念が、生命力を強固にする。

自分の心を磨き、心を積極的にしさえすれば、健康も運命もうまくいくようにできている。

信念歓喜

信念がすべての願望を思い通りに達成する原動力となる。

信念の煥発 (かんぱつ:「燃えたぎらせる」の意 ) の秘訣

①想像力を高め、心に念願する事柄をハッキリと映像化し、絶えざる気持ちでグングン燃やしていると、信念がひとりでに強固になる。

②簡単明瞭すぎて、効果的であることを理解でず、半信半疑になってしまってはいけない。夢に出るまで、思い描き続ける。

③人間のできることなら、何でも当然できるという自己断定する。

④思っていること、考えていることが土台になって信念ができてくる。実在意識での思考が潜在意識と結び付くと、信念が固まってくる。

⑤うまく取捨選択ができるようになり、心の思考が、驚くべき力を持っていて、無限のはたらきをするという、本当の心の値打ちがわかってくる。

現在、生きている自分の周囲を見ると、目に触れるすべての一切合財のモノは、すべて人間の心の中の思考から生み出されたモノである、それ以外のモノがあるはずがない。

それがわかったら、自分の一生も、自分の心の中の思考次第で、良くも悪くも作り上げられる。

自分の思考が、自分を現在あるような自分にしている。

原因は必ず自分にある、自分の思考にある。それがわかると、信念が固まる。無我夢中の心である。何にも考えない無邪気な心である。

「いいことだけ、絶え間なく、絵にかけよ、心に」

思考は人生をつくる。人生は心ひとつの置きどころである。

世間の人は、「心があらゆる力の根源である」という貴重な真実を知らない。自分の心があらゆる力の根源になって、現在の結果になっていると、気付いて反省する。疑惑が、すべての完成を妨げる。

潜在意識の持っている素晴らしい作用を、実在意識からうまくコントロールしていく活用法である。心が行う思考の直接の源は、意識である。意識には実在意識と、潜在意識の二つがある。

実在意識は、思考・想像の源をなして、潜在意識は力の源という役割を行う。

潜在意識は、人間の生命を生かし、守る貴重な役割を実行すると同時に、実在意識の思念するモノを現実化するよう自然に努力を行う傾向がある。

信念煥発

心に願望の映像をハッキリ絶え間なく描くと同様に、自己暗示も絶え間なく連続的に反復する。鏡に向かって鏡の眉間のところに新鮮な気分で自己暗示する。いつでも鏡を置いて、絶え間なく、瞬間瞬間、自分の顔に自己暗示を与える。


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