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(超長編)【本要約】世界は宗教で動いている

2021/11/11

宗教

世界を読み解くには、宗教が最大の補助線になる。
ヨーロッパ人もインド人も中国人も、当人たちは意識していなくても、長い歴史を経たキリスト教、ヒンズー教、儒教の発想や行動様式に支配されている。
宗教を理解すれば、グローバル世界を読み解く最大の鍵が手に入る。

世界では、宗教は、経済・政治・法律・科学技術・文化芸術・社会生活と切り離せない存在である。日本にも、根底には宗教の思想が流れている。

今、グローバル世界で必要なのは、異なった信仰や違った文明に属する人々が「どういう国際社会を築けるのか?」という構想である。

宗教には「自分とは何なのか?」という問いが凝縮されている。人間として生まれた誰もが、避けて通ることのできない問いである。だからこそ、世界のどの文明も、宗教を核にして、社会を集団化した。人類の知的遺産は、宗教である。

ヨーロッパ文明とキリスト教

神は、人間を絶対的に支配している。それは、神が天と地とすべてを創造し、人間も創造した。人間を造った神が主 ( ヌシ ) であり、造られた人間は神の所有物だから「神は、人間を自由にしてよい」という考え方である。
「人間が神に造られたのだ」としても、そのことを覚えているはずがない、神に教えてもらうしかない、それを伝えているのが一神教である。
※一神教 … ユダヤ教・キリスト教・イスラム教

民法の近代的所有権の性質は、絶対的に支配でき誰にも邪魔されない。所有権の確立によって私有財産制度が確立し、西欧世界は封建制から脱して、近代社会に移行できた。所有は、使用・収益・処分が自由である。家なら、使用は、住んでいい、収益は、賃貸して誰かを住まわせていい、処分は、売っても、壊してもいい。

所有権は、神と人間の関係を、人間とモノの関係にあてはめたモノだ。一神教の社会では、所有権は導入しやすい。一方で、多神教の社会や近代化が進んでない社会では、この考えは馴染みにくい。

「人間がモノに対して絶対的な支配権を及ぼす」という考え方から、近代化が進行した。

ユダヤ教の神ヤハウェ ( エホバ ) は、強く怖い神である。そこにイエス・キリストが現れて、新しいスタイルを提案した。神が怖く思えるのは、神が人間を大事にしているからで、神が人間を大事にすることを愛と呼び、神の厳しさは愛とした。恐れられていた神を愛の存在として捉え直したのが、キリスト教である。

人間は弱いから、自分だけでは生きられないから、神の存在が必要である。

ユダヤ教の伝統からイエスという預言者が現れた。預言者は神の声を聞く。それをまとめたのが、新約聖書である。

現在、ユダヤ教には預言者はいない。これまでの預言者の言葉をまとめたタナハというユダヤ教の聖典を中心にして、生きていくのがユダヤ教である。

預言者は、神ではない。預言者とは、神の言葉を伝えるだけの存在である。

イスラム教では、預言者ムハンマドを崇拝することを禁じており、アッラーだけが神であることを強調している。

預言者の中でも最も偉大なモーセは、ヤハウェの忠実な僕 ( しもべ ) にも関わらず、ヤハウェの怒りに触れ、約束の地カナンに入ることを禁じられて、死んでしまった。

旧約聖書では、預言者を崇拝しないように警告している。

一神教では「救世主が現れて人類を救う」とされている。

イエスが十字架にかけられて処刑されたのは、預言者以上の存在として、救世主・神の子として、認知があったからだ。

本来は異なる預言者・救世主・神の子という3つを束にして、イエスに重ね合わせた。そして、「イエスを通して、人々が神に従っていく」というのがキリスト教である。

キリスト教は、神が送ったイエスを処刑してしまったことが、人間の大罪としている。イエスは、神の子なら何でもできたはずなのに抵抗せずに処刑された。これ以上の大きな愛はないと信仰しているのがキリスト教である。

イエスは、旧約聖書の文言そのままではなく、解釈のレベルまで踏み込んで、応用自在に旧約聖書の文言を駆使したことが、預言者以上の権威として、認知された。

イエスは神の子なのか人の子なのか?

旧約聖書には「タビデ王の子孫から救世主が生まれる」という預言がある。
だから、イエスは、タビデ王の子孫であるヨセフの子でなければならない。
キリスト教の使徒信条では、マリアが聖霊によって自然妊娠している。
聖霊を通して、天なる神がイエスの父親になっている。

イエスの父は、ヨセフでなければならないし、天でなければならない、これを両方信じるのがキリスト教である。

キリスト教の偶像崇拝

ユダヤ教・イスラム教では、偶像崇拝は禁じられている。

カトリック教会は、ミサで「ラテン語を用いる」という原則を用いた。
ヨーロッパ全体に共通する言語となり、カトリック教会の一体性を保証した。
聖書もミサもラテン語なので、信徒には理解できない。
十字架・宗教画・聖人像などの図像シンボル、宗教音楽、教会の外で述べられるスピーチなどに頼る。

キリスト教の定着に必要不可欠な要素であった。

一神教の救済

一神教

救済とは、人間が神に赦してもらい、神に罰せられないこと。
人間は繰り返し神に背いているから、いつ、どんな理由で罰せられてと文句は言えない。

「罪とは神に背く」という意味である。

キリスト教では、アダムとイブの原罪としているが、ユダヤ教・イスラム教は、罪を犯さなければ、罰せられらないとしている。

救済とは、神が人間を赦して罰する代わりに、人間を受け入れ神の前で価値ある存在と認めてくれること。問題は、神と人間との関係だから、人間は自分で自分を赦すことができない。

キリスト教の最後の審判
すべての人間が復活して、イエスに個人単位で裁判を受ける。裁判では死刑はないが、有罪になると、永遠の業火に晒される、死ぬことはできず永遠に苦しむ。

キリスト教徒は「救済されるかどうか」が最大の関心事である。そのため、中世ヨーロッパでは、社会生活を軽視して、祈祷生活を重視した結果、社会剰余は、教会という非生産的施設につぎこまれ、経済成長が停滞した。

キリスト教では、人間はアダムとイブの原罪があるので、本来なら全員救われないはずだったが、イエスが人間の罪を背負って死んだので、一部が赦されることになった。それを決めるのが、最後の審判であり、イエスである。

ユダヤ教発祥

ユダヤ教の成立当時の社会情勢としては、古代社会が奴隷制であったことが影響を与えている。奴隷制とは、人間の主人が人間である状況、人間が人間を所有している状況だ。本当は「神が主人である」という考え方は「人間が主人であるべきではない」という意味だ。奴隷は、自分の主人を、神の存在によって相対化できた。「自分の主人は人間ではなく神だ」と思わなければ生きていけない過酷な運命があった、それが信仰の礎となっている。

宗教と政治の関わり

ユダヤ教

日常生活を拘束する宗教法がある。

ユダヤ教は、地元で少数派なので、地元の政権に交渉して、宗教的自治を獲得する。
イスラム教

預言者ムハンマドが政府を作り、軍官と政治家と裁判官を一身に兼ねた。

※神聖政治 … 宗教と政治組織が一体化した体制

一神教の理想の状態であるが、預言者の死によって永続しない。

イスラム教では、ムハンマドは、最後で最大の預言者である。ムハンマドのいない政治は、分業によって統治されてきた。
イスラム教は、地元で多数派なので、イスラム共同体の中のユダヤ教やキリスト教と共存を図る。
イスラム教は、ムハンマドに先行する預言者たちを、アッラーの言葉を伝える預言者として認めているので、宗教的寛容を内蔵している。
キリスト教

初期のキリスト教は、ローマ帝国の政府から弾圧されていた。弾圧に耐えているうちに信徒が増えてきた。人が増えると政府が、利用価値を見出す。衰退してきた政府は、キリスト教に、社会秩序の維持の協力を要請する代わりに、特権的な地位を認め優遇した。

キリスト教は、統治者に政治を任せる。
統治者に協力する条件は、信仰が守られること。

世俗の権力は国王が担い、宗教的権威を教会が担うという、二元的なシステムとなった。

※二王国論 … 政治と宗教の二元論、政教分離

ローマ帝国の東西分裂の後、西ローマ帝国は衰退し滅びたが、東ローマ帝国は繁栄した。

それは、宗教的権威と政治権力が結び付いたからだ。教会が、教義や聖書の解釈権を独占をしているので、教会が政治権力と結び付くと、改革不可能な体制になる。教会の異論や反対運動は政治的な意味合いを帯びてしまうので、すぐに弾圧された。

宗教と地域と政治

中国は、地形が広く平らだから、物資の流通や人間の移動のコストが少ない。地方政権による戦争が起こりやすく、また、遊牧民族などの外敵も侵入しやすい。そのため、中国人は、政治的統一を重視する。

ヨーロッパでは、アルプス山脈や地中海があって、物資の流通や移動が困難なので、地方政権が均衡した。そして、戦争を避けるためにキリスト教が役に立った。キリスト教は情報なので、移動コストが少ない。地方政権がキリスト教に改修すれば、教会がクッションとなり、戦争を避けることができる。だから、ヨーロッパでは、政治や軍事より宗教が優位する。宗教の次は哲学である。

日本では、ビジネス ( 生産活動 )を重視しており、政府は税金泥棒としての扱い、宗教も哲学も重視されない。

キリスト教
根本思想
個人の人格は神が作り、神は永遠であるから、個人の人格は永遠不滅だ。人格とは、意識・記憶・性格・感情・愛情などといった個人を成り立たせる資質である。人格を神が覚えていて、時期がくれば肉体を与えてよみがえらせる。肉体は変わるが、肉体は個人の人格とは関係ないから気にしない。

人が「いつ生命を得て、いつ生命を終えるのか」は、神が命じていることなので、悩まないのが正しい態度である。明日のことは明日になってから心配するような姿勢である。現在をしっかり生きることが大切だ。

カトリックとプロテスタントの歴史

イエスの弟子たちのリーダー格であったペテロは、初代のローマ教皇となった。それ以降、教皇は教会のトップであると同時にイエスに『とりなし』もできるという権限ももつ。
※とりなし … 最後の審判のときに、イエスに裁判の判決の助言をすること。

それによってローマ教皇の権力は増大し、ローマカトリック協会は、教皇の『とりなし』を免罪符として売り出した。

「免罪符は金次第なので、最後の審判でのイエスの専権が失われるから、一神教の原則に反する。そんなことは、聖書にも書いてない」こうして、プロテスタントが生まれた。

キリスト教では、人間を救済するのは神だけのはずで、教会は人間の集まりに過ぎない。その教会に神の代行ができるとは聖書にない。プロテスタントは、聖職者の存在を認めない、すべてが平信徒で、ただの責任者として牧師がいる。

ルターによる宗教改革の結果、多くの人々が聖書を読むようになり、プロテスタントは聖書中心主義を掲げた。プロテスタントは、人間のつとめは神のみに従うことで、神の言葉である聖書を重視する。

カトリックからすると、ローマ教皇は、世界人類を、イエスの言葉で救おうとしているのに、プロテスタントは妨害してくる存在である。

カトリックとプロテスタントの宗教戦争は100年以上も続いた。

宗教的戦争の結果、カトリックとプロテスタントは同等の権利を持つこととなった。

カトリック教徒はカトリック君主の元にある限り信仰の自由が保証される。
プロテスタント教徒はプロテスタント君主の元にある限り信仰の自由が保証される。

君主と自分の信仰が一致しない場合は、改修か移住が余儀なくされた。

君主の統治が政治なので、政治と宗教が直結するようになった。

アメリカの成り立ち

建国

自由な信仰を求めて、新大陸アメリカを目指したのが、プロテスタント教徒 ( ピューリタン ) であり、それがアメリカ合衆国の成り立ちである。

アメリカは、資本主義でも、民主主義でもなく、自由な信仰が元になって作られた国家である。そのため、政府は信仰に対して中立でなければならない。アメリカは、政教分離による、信仰の自由を憲法とした。アメリカ政府は、信仰の自由さえあれば、社会保障制度が手薄でも、年金や保険が未整備でも、問題ない。

ピューリタンの思想
・神が人間を救済する。天地創造の初めから、誰が救済されるかは決まっている。
・他人は自分の救済に無関係なので、徹底した個人主義である。
・他人が救済されるのかはわからないが、救済されない人は邪悪である。
 だから、人は信頼できないという徹底した人間不信

個人主義を徹底した結果、人々は信頼できる共同体を作ることができない。
個人主義は、人間と人間が法律によって関係する法の支配する社会となる。
人々の関係が、曖昧な信頼関係ではなく、法というルールで整備された社会が、自由である。

自由とは、誰も他人の意見を聞かなくていい。
自由とは、法に触れない限りは、何をしてもいい権利が守られている。

人間と人間が密接な共同体が日本であり、信頼もあるが、その分、協調性を求められ、自由がなく、法に触れない常識を強要される社会である。
アメリカでは、「成功者には、神の意思が働いている」と考える傾向がある。成功は神の祝福を受けたよいモノだと捉える。「出る杭は打たれる」という日本文化の反対である。

政治

アメリカは、建国の経緯から、教会と信仰を守る政治は重要だが、政治は手段に過ぎない。

①神
②神の言葉である聖書、神に従う人々の集まりである教会
③神への信仰を守るための政治

これら神への敬意をないがしろにする君主や政府 ( 政治家 ) は、批判の対象となる。

ユダヤ教の伝統では、批判を行なうのは、預言者の役割だった。現代では、預言者の役割を担うものとして、ジャーナリズムがある。ジャーナリズムは本質的に、反権力でなければならない。なぜならジャーナリズムの役割は、政府を批判することだからだ。

https://junjourney.com/world-is-driven-by-religion2/

政治と職業

アメリカでは「選挙でポストに就いたのは神の意思なのだ」と考えるから、大統領は人だけども、命令権者になり得るし、人々は従う。大統領個人ではなく、大統領の職務に対して忠誠を誓う。大統領の指示に国民全員が従う。大統領を辞めたら、政治家を引退し、一般人になる。

職業と個人の意見が分離されている。

例えば、戦争に反対ならば、軍人であっても、退職後には、戦争反対の意見を述べていい。個人の意見は、職業と関連しない。

職業

プロテスタントでは、天職 〜 世俗の職業はどれも神が人間に与えた任務である 〜 という思想がある。

自然 ( ネイチャー ) は、神が造ったので、自然は全部よい。
人間も神が造ったので、人間の身体は全部よい。

よいものとして造られた人間なのに、人間の自由意志によっては、よくも悪くもなる。

神の業はネイチャーで、人間のやることはカルチャーである。

カルチャーは、元々は、土を耕す、農業である。エデンの園には、食べ物があったから、農業は必要なかった。しかし、エデンの園を追放されたので、農業と牧畜が必要になった。人間の業である。

現代の人間の活動はビジネスがある。市場価格は、需要と供給によって決まる、神の見えざる手である。「需要がある」というのは「みんなが欲しい」ということである。みんなが欲しいものを作ることは、隣人愛の実践である。

「汝の隣人が欲していることを、汝の隣人にしなさい」
ビジネスを宗教活動の精神で、正直に行う。

昔のアメリカのお金持ちは、慎ましく暮らしていた、自分の満足のために使うことは、隣人愛ではなく、自己愛になるからだ。必要以上のお金は投資に回した。投資するとビジネスが拡大してもっとお金が増える。この繰り返しで資本家や資本主義が誕生した。ここで「お金が大事だ」として投資をしたのではなく「お金は大事ではない」として投資をしたことが重要だ。隣人愛の実践が投資である。

隣人愛の実践による天職を仕事して財を為し、財を投資することで隣人愛の実践し、資本主義が誕生し、発展していった。

科学

もともと科学は、宗教的な動機で始まった。

この世界は神が造った。
天体は規則どおりに回転している。
生物は設計どおりに繁殖している。
神の許可なしに動いている自然現象はひとつもない。
この世界は神の作品である。
この世界がどう造られているか、理解すれば、神の計画が明らかになり、神の意思に人間はより忠実に従うことができるのではないか?
「神の造ったこの世界 ( 自然 ) を、聖書のようなもう一冊の書物として『読解』しよう」というのが、自然科学がスタートした理由だった。

科学は、この意味で、人間の業であるが、科学の内容は、神に属する。神は、全知全能であるから、「この自然がどう造られているか」という秘密をすべて知っている。人間が知ることのできるのは、そのごく一部にすぎない。科学者の活動は「神の知に近づこうとする行為であり、神の計画を明らかにしようという行為である」である。

人間がやることは常に不完全である。
人間の理性は神が与えたので、理性は誤らない。
人間の業でも、必ず正しい答えが出る。
この理性を使って自然を研究するのが、自然科学である。
自然科学は実験・観察で見つかったエビデンス ( 証拠 ) に基づく。
エビデンスは、神から与えられた自然の出来事で、人間が、目で見たり手で触ったりして確認できるモノだ。

建国2

アメリカ先住民は、狩猟採集生活をしていて、農業をしていなかった。狩猟採集は農業労働ではなく、自然の成果をただで手にしているだけなので、土地に対する所有権は発生しない。農業をしている場合は、土地に対する所有権が生まれる。労働は「労働の成果を所有すること」を正当化する。ゆえに「農耕民の都合で、先住民をよそに移動させ、居留地に閉じ込めてもいい」という理屈である。

奴隷については「戦争の捕虜は奴隷にしてよい」という、古代からの慣習法があった。
「キリスト教徒同士は、戦争しても相手を奴隷にしない」という、キリスト教社会の慣習があった。

奴隷商人が、アフリカのどこかの部族をけしかけて、隣の部族と戦争させる。その捕虜が、奴隷になるので、買い取る。そして、奴隷を船に積んで、アメリカ南部の奴隷州の港に陸揚げする。奴隷州は、奴隷の所有権を認めている州なので、奴隷として輸入された人間の売買は合法である。白人の農場主は「奴隷を購入して綿畑で動かせる」という仕組みだ。所有権は神聖なので、連邦政府といえどもこれを否定できない。

南部の奴隷州が連合し、北部の奴隷を認めない自由州が主導するアメリカ合州国から分離独立をはかったのが、南北戦争である。北軍が勝利して、奴隷は非合法になった。非合法にもかかわらず、黒人の状況はなかなか改善されず、今日でも大きな問題になっている。

キリスト教では、神が持つ世界に対する主権・所有権を絶対視し、そこから派生する人間の所有権も神聖視する。
旧約聖書は、奴隷の所有権を認めている。
新約聖書は、解釈次第でどちらともとれる。

イスラム教

アッラーはアラビア語で神という意味で、ユダヤ教のヤハウェ、キリスト教の父なる神と同様である。天地創造し、最後の審判の主宰でもある、この世の唯一の神である。

イスラム教では、唯一の「一」が最も大切で、タウヒード ( 唯一性 ) という、ニや三は分裂を意味するので「一」を重要としている。
神は「一」預言者も「一」人類共同体も「一」すべて「一」ならば争いは起きない。

平和のための宗教というのがイスラム教の思想である。
イスラム教では、ムハンマドを最後で最大の預言者としている。
最後なので、それ以前の預言者、旧約聖書の預言者や新約聖書の預言者も認めている。
イエスも預言者としている。
イスラム教からすると、旧約聖書の預言者に従うのがユダヤ教徒で、新約聖書の預言者イエスに従うのがキリスト教徒である。
どちらも信仰の仕方が違うが、アッラーに従っているので、兄妹宗教のように捉えている。

イスラム共同体 … ウンマ
クルアーン … イスラム教の唯一の聖典
ジハード … イスラムを守る努力
【イスラム教とユダヤ教の対比】
ユダヤ教
タナハ … 聖典
 タナハの中の律法 = モーセ五書 … トーラー
  トーラーを補足する言い伝え = 口伝律法 … ミシュナ
       ミシュナの注釈 … ゲマラ
  ミシュナとゲマラ …  タルムード

ヒンズー教

世界は奴隷制から封建制へ移行していったが、カースト制は残存している。カースト制は奴隷制よりも強力な身分制である。

①カーストは輪廻によって入れ替わるので、本質的には平等である。
②同じカースト内で結婚して家庭を持つことができる。奴隷は結婚の自由はない。
③カーストは職業と結びついている。奴隷は主人の命令に従う。生まれた瞬間に職業が決まっている。職業を変えることもできないが、失業もない。
※料理を作ろうと思ったら、そのカーストの人を呼び、掃除をしようと思ったら、そのカーストの人を呼ぶ。すべてのカーストの人々が相互依存しながら生きていく社会である。

【身分制度と国や宗教との比較】
日本では、江戸時代に士農工商という身分制度があった。明治政府では、どのような身分の人でも大将や元帥になれる軍隊組織や、士農工商も男女も関係なく学校へ行ける学校制度を用いることで、近代化していった。

イスラム教は、身分制を認めない。アッラーの前では、すべての人間は平等である。

シク教は、ヒンズー教とイスラム教を統合した宗教、カースト制を否定し人間平等を唱える。

インド人には輪廻という考えが文化となっている。カーストと輪廻は表裏の関係で、現世で低いカーストでも、死んで生まれ変われば、違うカーストになる可能性がある。

輪廻と対照的な思想が、祖先崇拝である。祖先崇拝である国が中国である。中国では、輪廻思想の仏教を取り入れたが、輪廻は受け入れられない形で仏教が残っている。日本人も祖先崇拝があるが、中国人・韓国の祖先崇拝には足元にも及ばない。

輪廻は、人間と動物の間に境がなく、動物と人間は同類の生命体と見なす。境があるのは、動物と植物の間である。神経組織のある動物を有情と言い、神経組織のない植物を無情と言う。

一神教は、猿と人間は別物として、神に造られたと考える。

【バラモン教】
・征服民族であるアーリア人が持ち込んだ。
・ヒンズー教の前身である。
・「宇宙や生命の本質を探究しよう」とする哲学的な要素を持つ宗教とは異質な存在である。

仏教

仏教の根本思想

【仏教の根本原理】
仏 > 神

・神とは、インドの神々、ヒンズー教の神々である。
・仏とは、釈迦が悟った状態である。釈迦は人間である。

「神より仏が大事 = 神より人間が大事」ということで、仏教は人間中心主義である。

神を崇拝するより、自分が修行して、仏を目指しなさい。

仏は自分自身、自分の理想である。
仏になることを目指して、努力する。
仏になる努力以外に価値がない。

「神がいるかもしれないけど、私は関心がない」というスタイルが仏教である。

中国仏教

中国に伝わった仏教は、中国で独自の発展を遂げた。

仏教では「大事なのは人であり、人が悟ることに価値があり、人以外の政治・経済には価値がない」という哲学である。家を捨て出家することをよしとする。

人間中心思想の仏教がインドから中国に入ってきたが、中国の儒教の考えと相反する部分があったので、仏教と儒教の都合の良いところを組み合わせてできたのが中国仏教である。

中国仏教は、国営宗教となった。国営なので財政負担となり、政権交代の際に仕分け対象となり、中国仏教は全滅した。唯一、残った仏教が、禅宗である。禅宗は、独立採算で経済的に独立していたからだ。禅宗は仏教の戒律を正とせずに、座禅で修行することを唱えた。

仏教の修行は、出家者が、世俗の活動(農業・商業・サービス業)に従事することを禁止している。
禅宗の修行は、自給自足のための生産活動を行うことが、修行であるとする。労働・即・修行として、労働そのものに価値がある。

儒教

孔子

孔子は「能力次第で家柄に関係なく行政に参加すべきだ」という思想があった。

行政に儒学の本質がある。
儒学は教育がすべてである。
儒学は、過去を基準にして、政治を重視する。

儒学では、価値基準を過去に置いて、現在や未来を考える。

一神教では、未来の最後の審判を基準として、そこから、逆算して現在を考える。

孔子
・過去の伝統に精通しているとして、実績のない行政官僚に対抗した。
・過去を基準とするのは、現在において、戦略的優位に立つためだった。

政治は、人間が人間を支配することだ。
神も宗教も、哲学も、軍事も、芸術も、重視されない。

孔子は、人間の価値が発揮される活動は政治とした。「過去に理想の政治があったから、その理想の過去を現在に再生産する」ことを実現すべきというのが儒教の根本思想である。

聖人 … 昔の政治家
君子 … 儒学の教えを実践する現在の知識人
小人 … 統治される一般市民

聖人君子は、儒教の考え方を的確に表している。

「私はよく勉強して、昔の政治家がどうやって政治を行なったか、よくわかりました。ですから、私は、血筋も家柄も身分もお金もないけれど、行政官僚にして、政治を任せて下さい。」ということだ。

儒学は、官僚を養成することを目的としている。
儒学は、人を支配する、政治学である。

孔子は、官僚として雇用されようとしたが上手くいかず、他国へも出向いて行ったがそれでも上手くいかず、郷里に戻って学校を設立した。自分のことを諦めて、後人に希望を託そうとした。コレが世界で最初の学校だった。その学校の教科書が「経」である。

仏教の教科書も「経」と言うが、元々は儒学の教科書のことだった。「経」は、最も高いランクの教科書をいい、それ以下のモノは「論」という。「論語」は「経」よりランクが低い教科書である。

孔子は「述べて作らず」として、政治の古典を集めて編集しただけで、自分の手を加えていない。儒学は孔子の思想ではなく、政治の古典を読解するメソッドである。儒教は、官僚養成システムである。

政治に無関心だった農民が、教科書を通じて学んで「自分も政治に参与しよう」としたことが革命的であった。

ヨーロッパでは、高い教育を受けても、身分制があるため、王や貴族になれない。
中国では、原理上は人民の誰でも統治階級への道が開かれた。
孔子の時代は、戦争が絶えなかった。統治者は、臣という奴隷を官僚として各地に派遣して、治めていた。中国の官僚の起源は、奴隷制だった。奴隷は統治者に絶対服従であるが、派遣先では統治者の代理として、大きな権力を持つ。支配される大衆より、奴隷が社会的地位が高い。そこで大衆の中から、奴隷になってもいいから、官僚を志願する人々が現れた。そのために、官僚養成の学校を作るイノベーションを起こしたのが、孔子である。

儒家と法家

儒家は、統治者に対する絶対的な服従を強調する。
絶対的な服従によって、社会秩序がつくりやすくなる。
中国に一番必要な、政治的統一を実現する中央政府をつくりやすくなる。
法家は、統治権力の絶対性を強調する。
統治権力は、人民に、どんな命令を下してもよく、法律は絶対である。
法律は、統治権力からの人民に対する命令であり、厳罰主義で徹底をはかる。

儒教は、法律だけでなく、徳 ( 仁 ) を大切にする。統治権力が命令しなくても、人民が自然に統治者に従い秩序が保たれるのが理想である。

統治権力と独立した要素として、家族を重視する。
年長者に従うことをすべての人々に要求した。
統治者に対する服従を忠 ( 義 ) として、年長者に対する服従を孝とした。
※この両方を大事にする点が、法家よりも優れていた。

家族道徳は、農業の基本である。農業は、農民が利己的に行動するのではなく、家族や子どものことを考えて利他的に行動する方がうまくいく。農地を子どもに相続させることで、子孫が生きていくのに困らない。そして、先祖である自分を祀るだろう。家族道徳によって、人民が社会秩序を守ることができた。

中国の社会構造の基本は、中央政府は官僚制、それ以外は宗教 ( 父系血縁集団 ) という二層構造である。現在でも、中国の基本は儒教である。

「儒教は政治学なのに宗教と言われる」のは、祖先を崇拝して、儀式を行うからだ。もう一つは天を祀って儀式を行うからだ。「目に見えないモノを実在するかのように行動する」から宗教だとする。

人間は、利己的であるよりも利他的である方が行動する。
利他的な範囲は、個人の集まりの最小単位である家族が最も受け入れやすい。
権力者が社会を支配しやすい仕組みを、個人が家族に対しての利他的な行動として課す。
※家族:年長者に対しての服従、社会権力に対しての服従

日本の宗教

江戸から明治維新へ

江戸時代に日本人が学んだのは朱子学であった。

朱子学
・統治者に対する絶対服従がある。
・宇宙の根本から説き起こし、その宇宙を体現した知識人が、試験を受けて官僚になり、政治に参画する。
・天には気があって、気はすべての現象はもちろん、人間にも行き渡っている。勤勉な知識人は、天から良い気 ( 正気 ) を授かっているから、試験に受かって、政治を担う。

江戸時代は「武士は戦争をしなくていいから官僚になりなさい」と、読み書きができるように勉強させた。官僚になるための学問が朱子学であった。

朱子学を勉強すると、幕藩体制の現実との齟齬が明らかになる。
朱子学は、武士の存在基盤を崩す思想である。
朱子学は、幕藩体制を否定する尊皇攘夷運動へ帰結する。

明治維新と共に、日本はなぜ急速に近代化し、資本主義経済を発展することができたのか?

社会学の通説では、近代化は容易ではない。特に、伝統社会の人々が、新しい行動様式を身に付け、資本主義経済に適合した行動を取るのは困難である。

幕藩体制は、自立した分権的体制であった。

経済は自律的である。
政治の介入は限定的である。
政教分離の体制も整っている。
藩と藩との経済競争が、日本の統治階級の武士に経営の経験を与えた。
農工商に対しては、仕事は天が与えた役職で、勤勉に仕事をするのは、仏道修行とした。

日本には至る所に神がいる「世俗の労働が仏道修行だ」という論理がまかり通る。職場は神聖な修行の場だから、神棚がある。職場に神がいるのだから、それ以上、宗教活動に参加する必要はない。宗教施設には、お葬式や結婚式など、用があるときに行けばよく、普段は職場に居ればいい。これが、日本教である。

日本人と仏教

日本の宗教は神道である。

日本の漢字は、中国由来のモノなので、中国語の概念が移植されていると捉えられる。これは、日本人の思考スタイルの中に、儒教・仏教・道教の考え方が内包されている。

日本では、森羅万象に神の発現を認めて、八百万神としている。

神社は、元々、神を拝む場所なので神はいないはずだが、いつのまにか、「神社に神がいる」と信じられるようになった。
その結果、人間の都合で、神社に神が幽閉される形になった。
そのため、神社で、ダンス ( 神楽 ) を見せたり、格闘技 ( 相撲 ) を見せたり、神が退屈しないようにする。
たまには、リムジン ( 神輿 ) に乗って、近所に散歩に出たりするのが、お祭りだ。
お祭りの大事な点は、神と人間が一緒に食事をすることで、仲良くすることだ。

一神教では、神の他は何も存在しなかった、すべては神が無から造られた。神の命令が、創造の本質である。生き物はすべて神が造った。

日本人は「人間が造られた」という感覚はなく、自分は「自然に生まれた」と思っている。

神が自然を生み、植物・動物を生み、人間を生んだ。
産むのは自然現象であって、創造とは異なる。
日本人は「世界は自然に生まれた」と思っている。
生むの本質は、コピーである。親のコピーが子どもである。
人間は神のコピーだから、人間と神は親子の関係にある。
神道は、すべてのモノは「何か」から生まれたとする。
仏教では、生き物の存在を、因果律 ( 輪廻の法則 ) で捉える。現世では、親の階級を引き継ぐのだが、それは、当人の前世の行いの因果律と見なし、親は無関係とする。

日本人は「親から生まれたから、今、自分はここにいる」と考えている
=神道を信仰している

仏教は「世界を因果律が支配している」と考える。そこには、責任者がいない。
一神教は、神が自分が造った世界に対して、責任と支配権を持っている。
世界は、すべて、神の所有物であり、神のコントロール下にある。

神道は、多くの神と人間との共同作業によって、この世界を支えている。人間にも責任がある。

【地震に対しての思考】
・一神教は、ある場所で地震が起こったら「他の場所で地震が来なかったことを恩恵だ」と思って感謝する。被害にあった人々は「不運でなく神が与えた試練だ」と思って乗り越える。
・神道では、「地震は神の機嫌が悪かった」ということなので、神の怒りを鎮めるために、お祭りをする。酒や料理や生贄を用意して「神の機嫌をよくしよう」とする人間同士のやり方を当てはめる。

神道の国に、仏教が入ってきた。仏教は哲学なので、馴染まなかったが、「インドの神が日本にやってきて、神になった」という本地垂迹説が広まり、通説となった。結果「仏 = 神」となった。仏教と神道の区別がなくなり、神仏習合となった。

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