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【本要約】はじめての構造主義


2021/12/15

マルクス主義

マルクス主義によれば、人間社会は歴史法則によって支配されている。この法則は科学的真理だから、絶対的である。資本主義社会が解体し、社会主義・共産主義社会に道を譲ることは、もう決まっている。この歴史の道筋をしっかり認識する。

マルクス主義は、社会全体の救済を目指すので、一人一人の運命は問題としない。しかし、ヨーロッパはキリスト教文化なので一人一人の人格や個性や自由に価値を置く。マルクス主義は最もだけど、「私の生きる意味はどうなのか?」という疑問を持つ。

サルトルの実在主義では、人間の存在なんて、もともと理由のない事 ( 不条理 ) だったはずだ。どうせ理由がない ( 無駄死にする ) なら、歴史に身を投ずることに賭けてみよう。その方が価値のある生だろう。

①構造主義は、人間や社会の在り方を歴史抜きに直視する方法を発見した。
②人間社会には自覚できない無意識の「構造」があって、時間が経過しても不変である。
③構造主義は、人間主義 ( ヒューマニズム ) である。
④ヒューマニズムとは「人々が互いに対等な人間と認め合って、人類共同体を構成し、協力しよう」という思想である。

構造主義は、歴史を否定し、西欧的な意味での主体や人間を否定する。西欧中心での視点を止め、近代ヨーロッパ文明を「人類文化全体の拡がりの中で再定義しよう」という思想だ。

・構造主義は、比較方法論であるから、資本主義社会や西欧近代の枠外に出ることができる。
マルクス主義をはじめとする19世紀以降の様々な思想が暗黙のうちに従ってきた歴史的感覚の枠外である。
・構造主義は、西欧近代の持つ、「東洋や未開の社会が劣ったものである」という視点は、偏見であるとする。
・構造主義とは、現代思想を解く鍵であり、現代社会を理解する要である。

構造主義
人間は「自分の行動や判断を自由に決定している」と思っていたが、実は、何らかの「構造」に支配されているので、「自由に決定している」わけではない。
人間の自由な決断は、社会や文化の影響を受けている。

言語

言語が物質世界と接点を持つとしたら
①言語の指し示す対象が、物質的な存在である。
②言語が、物理的な音声によって成り立っている。

①言語の指し示す対象が、物質的な存在である。

言語によって、対象の切り取り方が異なる。日本語で「水」と「お湯」は別々のものだが、英語では「water」というひとつである。

世界の在り方は、言語と無関係でなく、どうしても言語に依存してしまう。ある言葉が指すものは、世界の中にある実物ではない。その言語が世界から勝手に切り取ったものである。また、言葉が何を指すかも、社会的・文化的に決まっているだけである。物質世界の在り方とは独立に、言語のシステムを複雑化し、洗練していき、感性や思考を高度にしてきた。

②言語が、物理的な音声によって成り立っている。

日本語では「r」と「l」区別は問題にならないが、英語では問題である。音そのものではなくて、音の中にある区別である。音だけで区別がなければ、そもそも言語が成り立たない。言語の中には区別しか見つからない。区別に先立つ実体などない。言語は差異のシステムである。

シニフィアン/シニフィエ
個々の言葉には、ふたつの側面がある。

ひとつは「それが音として成り立っている」という側面。
例えば「犬」という単語なら「inu 」と発音しないと、その単語のことにならない。
これを、シニフィアン 〜 記号表現・意味するもの・能記 〜  という。

もうひとつは「それが意味をもつ」という側面。例えば「犬」という単語なら「ワンワン吠える生きものだな」「ハチ公もそれだな」などという考えが浮かぶ。
これを、シニフィエ 〜 記号内容・意味されるもの・所記 〜 という。

このふたつの側面は、密接不可分に結びついて、個々の言葉を形作る。

日本語の中で「犬がどこにどのくらいの場所を占めるか」を「価値」とする。
「市場で取引される商品の価値と似たようなもの」とする。
〜 ソシュールの定義

①誰かが「大根を売ろう」としている。
②大根がどんなにおいしいか、口をすっぱくして説明しても、その大根の価値は決まらない。
③「ニンジンなら何本、ゴボウなら何本、交換できるか」がわかって、はじめて大根の価値も決まったことになる。

つまり、価値は、そのもの自身によってでなく、市場の中で他のものと結ぶ関係によって決まるのだ。同じように「犬」の価値も、記号のシステムの中で、それらが他のものとどういう対立関係にあるかによって、決まるのである。「個々の言葉や記号がいかなるものか」は、記号のシステムの内部の論理 ( だけ ) によって決まるので、それより外部の現象 ( 実体 ) には左右されない。

交換

価値あるものだから交換されるのではない。
交換されるから価値がある。

人々の間に交換システムができあがっていて、あるモノを交換のために、みんな欲しがるから、それが価値あるものとなる。交換のシステムは必ず価値をはらむ。この交換システムのことを全体的社会的給付という。

社会 ( 人とのつながり ) とは、交換することなのであって、誰もが交換に巻き込まれていく。交換されるモノに「価値が備わっている」としか見えなくなる。社会的事実として生じてるいる。

交換の媒体である貨幣 ( 価値 ) は、人々を巻き込む交換システムの力の象徴になっている。媒体には、何か使いみちがない方がいい。下手に使いみちがあると、自分で抱え込んでしまって、交換に参加しなくなるからだ。

社会の一番基本的な形は、交換のシステムである。その交換は、利害や必要に基づくのではなく、純粋な動機 ( 交換のための交換 ) に基づくものだ。

交換のシステムの中では、女性・物財・言葉が「 " 価値 " あるもの」になる。しかし、それらが、「その " 価値 " ゆえに交換される」とか、「利害動機や機能的な必要に基づいて交換される」とか、考えるわけにはいかない。あくまでも、交換のための交換が基本であり、それが特殊に変化・発達していった場合にだけ、いわゆる経済 ( 利害に基づいた交換 ) が現れるに過ぎない。

「経済 ( 下部構造 ) が、文化や精神世界 ( 上部構造 ) を規定する」というマルクス主義の基本的思考に対立する考え方である。

数学

19世紀半ばからの100年間で、数学の意味は変化した。数学は真理ではなく、ただの制度になった。自然科学についても同様だ。科学もやはり真理でなく、制度 ( 仮説 ) でしかないことが受け入れられていく。

「何かある現象や世界のことを考えよう」とするとき、ヨーロッパでは伝統的に、数学や論理や科学に依ってきた。そうすれば、真理にいくらでも接近していくことができる。「時間や空間の制約 〜 ある時代・ある社会に生きる人間の知識に過ぎないこと 〜 を超えられる」と信じてきた。

ところが、数学も科学も、制度に過ぎない。

それなら、いくらがんばって、思考を数学や科学の形に表現しても、少しも、その時代・その社会の課する制約を抜け出したことにはならない。つまり、数学や科学を生みだしたからといって、西欧近代の知が「特別に普遍的である」とは限らないのだ。

「西欧近代の知も未開社会の知と同型である」と証明してしまった。

〈 構造 〉は、数学の中に隠れている秩序である。

未開社会の神話を調べてみると、そこに必ず〈 構造 〉が見つかった。つまり、未開社会の神話を支えている、人々の集合的な思考の働きと、西欧近代の数学を支えている思考の働きとは、実態が同じだった。「神話と数学」の2つは、見かけこそ似ていないが、両方とも同じ秩序を隠している、2つの制度なのだ。

視点

視点とは「この世界を視ることを自覚した」人間の視点だ。「視る主体」の誕生と言ってもいい。

・世界は物体 ( = 客体 = 客観 ) の集まりである。
それ以外のもの ( 神や霊魂 ) は、どこにも見つからない。
・世界を視るのは、私だ。
私は、視る主体 ( = 主観 ) である。
私は、この世界の物体ではあるが、特権的な物体、つまり、他の物体を視ることのできる物体である。
私の描く画面は「私から見て世界がこのようだ」という証言になる。

視る主体は、世界の中のものを何でも視て歩くことができる。
視る主体にただひとつ不可能なことがあるとすれば、それは、視る主体を視ることだ。


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