「運も実力のうち」を、スピノザ的に解釈してみる
通常使われる「運も実力のうち」
「運も実力のうち」という言葉をよく目にしたり耳にします。経営者の格言や、ビジネスの指南書、自己啓発本なんかでもよくあります。
電車ではよく、深見東州さんという方の「運がドンドンよくなる」という少しあやしい(失礼!)広告もよく見かけます。
初代タイガーマスクの佐山聡が、格闘技の合宿の中で、弟子たちに向けて叫んでいるという動画も、YoutubeやSNSでよく出回っていますね(笑)
この「運も実力のうち」というのは、どのような意味として使われているのでしょうか。ちょっとネットから引っぱってみます。
どうやら、この言葉は、成功者はもともと環境的にも恵まれているということで、運的な要素を正当化するものであるといったような批判的な意見も多いようです。
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授も『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)という本を出しており、「そもそも環境(運)が恵まれていなければ、実力を身に付ける機会すら得られない」と主張しているようです。
では「運」というものはなんでしょうか? ある定義だとこう書かれています。
確かに、私たちが「運」という言葉でイメージするのは、こんな感じでしょうか。強引に私の言葉で解釈しますと、
「人間(自分)の意志ではどうにもならない、偶然的な要因」とでも言い換えられるでしょうか。
スピノザ的な「運も実力のうち」?
一方で、こんな説明もあります。
こちらは、「運」(うん)というよりも、「運」(はこび)の意味合いで、音読みで「うん」と呼ぶだけであり、前述した「運」とは、だいぶ印象が異なります。というより、もはやまったく違う意味として、われわれは使い分けていると思われます。
しかし、こちらの「運」の印象はどうでしょう。前述の偶然的要素としての「運」と異なり、「物事を円滑に動かして働かせる」というのは、どこか能動的、主体的な響きを持っていないでしょうか?
かつ、「定まったとおりにめぐり行く」という言葉は、どこか、私の好きな哲学者スピノザを想起させます(笑)。
ここで、唐突にスピノザを登場させましたが、わけがあります。
國分功一郎先生のおかげで日本でも有名になったスピノザは、どなたでも一度くらいはその名を耳にしたことがあると思います。
スピノザの哲学の特徴を、一言で言い表すなら、「必然」です。
この世界で起きうることには、必ず「原因」(※「目的」ではないことに注意)があり、起こるべくして起こる、という必然です。世界は普遍的な「自然の法則」に従っており、人間が行うことも、考えることも、作り出すことも、産み出すことも、すべてその自然の中で行われる、ということです。
スピノザは、いわゆる「奇跡」であるとか「神秘」であるとか、人智を超えた超常現象を認めません。それらは、たんに人間の知性ではその現象の原因を十全に(十分)に理解できないゆえに、特別な力が働いていると思いこんでしまうだけのことであり、それを人間は、「奇跡」や「神秘」だと呼んでいるにすぎない、と説明します。
で、十全にこの世界の出来事を把握できるのは、この自然法則を生み出している自然そのもののみであり、その自然(=世界)のことを、スピノザは神と呼びました。これが、「神即ち自然」というあまりにも有名な彼のテーゼです(※ここでいう神は「人格神」とは全く異なることに注意)。
したがってスピノザは、当然のことながら「偶然」というものも認めません。それらは、たんに人間の知の不十分さ、いってしまえば無知、未知からきている、言葉上の「概念」でしかないからです。
ですので、スピノザがもし現代に生きていたら、偶然的要素の強い「運」といったものは認めないはずでしす、「ガチャ」なんて言葉には、ぶったまげてしまうことでしょう。
しかし、それらの言葉は、「人間が使う意味」として使いたいなら使えばよいとスピノザならいうはずです。ただしそれは、世界の真理ではないよ、真理としての偶然、奇跡や運命なんていうものはないよ、というだけのことです。
注意したいのが、「運命」もまた、必然的に物事が定まっているという意味合いで使いますよね?と疑問に思う方もいるかもしれません。しかし、スピノザの場合、必然を運命というニュアンスでは使用しません。
運命というのは、ある外部の力、神とか天とかによって、あらかじめ定められてしまっているというニュアンスになると思います。しかし、それはこの世界を超越してまなざしている「超越者」を想定してしまっています。
スピノザはこの超越者(人格神のような)の存在を認めませんので、スピノザの必然とは「あらかじめ決まったこと」という意味合いではなく、この世界で起きている現実は、「決まったことがすべて」なだけ、というニュアンスになるかと思います。
偶然的な「運」と必然的な「運」
さて、ここまでの二つの「運」についての違いを整理してみましょう。運①が、われわれがよく使う意味での運です。運②は、私がスピノザ的だと感じる方の運です。
運②の方を、われわれがよく耳にする「運」という使い方をするのは、正しくないのかもしれません。まあ、正しくないでしょう(笑)。
しかし、私はここで学問的な正しさとかを述べたいわけではありません。こういったある種の解釈、言葉の受け止め方を変えることで、日常生活においても実践的に使えるものですよ、ということをこれからお伝えしたいと思います。
ところで、最近はこの運①が、「ガチャ」というような言葉で濫用している印象があります。「親ガチャ」「先生ガチャ」「上司ガチャ・・」、あげく「人生はガチャなのか」的な議論も見受けられます。
しかし、この運①の使い方は、成功した者や、勝利した者には、ラッキーとか、運がいいぜ!的なポジティブなものとして捉えられますが、そうでない者たちには、やはりどこかネガティブなものとして捉えられがちです。その受け止め方は、感情的にさえなってしまうかと思います。
『スプラトゥーン』というガチャ要素の強い人気ゲームが端的に示していますが、ガチャという偶然的要素は、勝者には、強い喜びを与えますが、敗者には、深い悲しみ、場合によっては怒りにも変わるくらいの激しい動揺を与えます。
このように、世界を、自分の意志ではコントロールできない偶然的な要素、確率的なものとして捉えてしまった場合、勝者はそれを誇らしく語ることができるでしょうが、敗者には、「どうせ世界は運でしかないんだ、ガチャだから仕方がないんだ」という負のオーラ全開の感情を与えることになってしまいます。
実際に、私自身がそうでした。私は就職氷河期の世代の人間で、私自身の怠慢もあって、就職には苦労し、飛び込んだ世界がそれこそ「超」がつくほどのブラックな業界でした。かつ、慢性的な残業と低年収という状況で、私は、この「勝ち組」「敗け組」で人を括りたがる格差社会というものを、呪っていました。
そこにある感情は、どうしてあいつはこうなのに、オレはこんな目にあっているのだ、という、ネガティブマインドです。
だったら転職すれば?という声もありましたが、転職をしようにも、実力がない状態のまま転職しても・・という思いもありました。そうです、自分は環境や境遇、周囲のことばかりに目がいくのですが、自分のスキルが、客観的にみてどうなのかは、棚に上げていたのです。
しまいには、こんな格差社会を生み出している日本の政治が悪い、資本主義社会が悪い、その資本主義に隷従している人間どもが悪い・・といったように、他責の無限連鎖に落ちていくのです。
そんな時、こんな私の歪んだ精神を支えてくれていたのが、このスピノザの思想なのでした。
偶然的な「運」と感情の隷従
スピノザは、あのフロイトを先取りしていた、と言われるくらいに優れた「感情の哲学」を残しており、その考え方によって、私は今ある自分の状況をしっかりと把握し、視点を変え、思考を変え、そして行動を変えることへとつなげていったのでした。
スピノザによれば、人間は、感情に支配されているうちは、感情から自由になれないといいます。
ここで「運命」という言葉が出てきますね。ガチャとか他責にするといった要素と同じ意味合いで使われています。
最後の文章は、私も耳が痛いです。感情に支配されている間は、自分が大切にしている「価値あるもの」を知っていながらも、世間の声や他人の意見に流されてしまう、ということではないでしょうか。
このように感情に支配されている状態を、スピノザは「受動感情」とか「活動の減少」と呼んでいます。この受動感情に捉われているうちは、人間は自由ではない状態、隷従している状態、というわけです。
しかしスピノザは、感情から抜け出す方法についても、提示してくれています。実際の議論は複雑ですが、ここでは簡略化します。
ものすごくシンプルにお伝えしますと、物事を十全に「認識すること」が、受動感情の克服方法なのだと、スピノザは言います。感情の原因を明確に認識しようとしている間だけは、その感情から自由になれるということです。
これは「認識的療法」と呼ばれるものでもあり、物事を正しく認識しようという理性の働きにおいて受動感情を克服しようというもので、精神分析などでも使われている手法だそうです。
自由とは、必然の認識=行為である
ここで、認識や理性という言葉が出てきますが、これは「自由」という概念にもつながります。スピノザにとって「自由」とは、必然なる自然(世界)の法則を、理性において正しく認識することです。
また、認識とは、精神で何かを理解する、考える、把握するというニュアンスに思いがちですが、スピノザのいう認識とは、同時に「行為」という心身並行の働きかけを意味します。スピノザが「知的認識」というとき、それは「自由に行為する、自由な行為には真の認識が伴っている」という意味合いになります。
大谷翔平が、誰よりも自由に野球ができるように見えるのは、彼が誰よりも自分の身体のことを認識=行為しているからでしょう。スピノザはこのような、自分の能力に見合った、身体/精神の正しい把握と使用(認識=行為)を、自由と呼ぶのです。
そしてその必然の認識=行為は、自由と呼ばれるのですから、言うまでもなくこれは「能動的」な態度といえます。
具体的な話をしますと、まさに私も、自分の境遇を呪いたくなるような受動的な感情という状態から、スピノザにならい、考え方を変えるようにしました。
「環境のせいにしない」「他者と比較しない」「競争に乗らない」「現実逃避して過去や未来にすがらない」と、まずは負の思考を振り払うことからはじめ、そこから次に、「今自分が持っている能力において、今の自分にできることは何か?」ということを考えたのでした。
認識とすべき行為がセットとなって浮かび上がりました。
次に私はこう考えました。まずは、実力もないうちに転職とか、会社を辞めるとか、夢見がちなことは考えず、今の環境で今与えられている仕事を、まずは100%の力でやっていこう。
その仕事において、自分がナンバーワンだと自信がもてるくらいに極めてみようと。他者との比較で1位になるという意味ではなく、自分史上1位を目指したのでした。
すると、じょじょにではありますが、自分ができる仕事の範囲が少しづつ広がっていきます。発揮できる力も、105%、110%・・・と広がりました。
そうこうしていると、次の仕事を任されるようになってきます。そしてその仕事も、自分にとって可能な範囲で、全力で応えたいという思いでやっていくうちに、ふと、見えてくる景色が変わったのです。
そのタイミングが、「もしかしたら今の自分なら、他のマーケットでも通用するかも」という思いにつながり、転職を考えるきっかけにすることができたのです。
自分の能力の「成長」を確信した瞬間です。
まとめ的なもの
さて、ここまできて何が言いたかったといいますと、この時の私の「認識=行為」状況は、まさに運①から、運②への転換を果たしていたのです。
再掲します。
「人間(自分)の意志ではどうにもならない、偶然的な要因」として捉えていた「運」ではなく、「物事を円滑に動かして働かせる」、「定まったとおりにめぐり行く」ものとしての「運」です。
このように考えると、「運も実力のうち」という言葉は違うものに見えてきます。偶然的、ガチャ的な要素を引き寄せることも実力のうち、という意味ではなく、「必然への認識」が「行動」を生み、<運用>(オペレーション)となり、それが自分の「力」になる、というスピノザ的な意味への転換です。
世界を「受動的に見る態度」から「能動的に見る態度」への転換ともいえるかもしれません。
いかがでしょうか。「運も実力のうち」というよくある言葉が、まったく違ったものとして浮かびあがってこないでしょうか。
でも、必然的なんてどこか機械的でいやだと思う方もいるかもしれません。そんなの人間らしくないと。でも、偶然的、ガチャ的といった、不安定かつ他責な考え方に感情を左右されてしまうのと、果たしてどちらがよいでしょうか?
私は前者を選びました。それが私の解釈する「運も実力のうち」になります。
<参考文献>
・『エティカ』スピノザ/工藤喜作・斎藤博訳(中公クラシック)
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