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スピノザが考える「国家」や「自由」とは? 〜その1 国家の目的について〜


とりあえずの序章

 スピノザ。「自由なる哲学」、「力の存在論」として、『エチカ(倫理学)』こそが有名だが、スピノザ思想の神髄は、『エチカ』だけではない。

 スピノザは哲学者としてその名を知られているが、同時に政治思想における先駆者としても、定着しつつある。そのことについては、以前にも以下のような記事を書いた。

 アメリカの政治哲学者として著名なレオ・シュトラウスによれば、スピノザは、「最初のリベラルデモクラシーを唱えた人物」(『政治哲学とは何か』)ともされる。

『エチカ』が、個物としての人間=個人における自由や徳、倫理につていの書物であるならば、スピノザ最晩年の作品である『政治論』(邦題は『国家論』)は、集団としての人間、すなわち国家や社会のあり方についてを考察した書物である。ただし、本書はスピノザ自身の死によって未完となっている。

 通常、われわれは「国家」ときいて、何を連想するだろうか?

 統治、権力、支配するもの、巨大なもの、恐怖政治、悪政、われわれの生活を抑圧するもの。

 今の日本の状態をみていると、そんなものばかり連想してしまうかもしれない(笑)。

 ひと昔前なら、国家権力には抵抗せよ!と左翼が声高らかにしていた。ロックンロールやパンクであれば、国家なんてくそくらえ、と歌っていたであろう。

「国家」とは、常に、私たち「個人」と対置される。権力を振りかざし、個人の権利や自由を脅かすものが国家であるのだと。

 そんな「国家」が、個人の「自由」と、両立するのだろうか。

 スピノザは、両立すると考えていた。両立するばかりか、真の国家と個人の自由は不可分のものとさえ言い切る。

 だから、国家とはなにも、個人に対立するものではない。むしろ、自由を求めれば求めるほど、人間は、個人は、国家を「欲求」するのである。

 そのことについて、スピノザの遺作、『政治論』を参照しながら、その解説を試みたい。

 ずばり、各人が「他人の権利の下にある」(国家の下にある)と同時に「自己の権利の下にある」ことがいかにして可能かを問うたのが、『政治論』なのである。

人が生まれながらに持つ自然権の調整を通じてその成員に安全と平和を保障する機構が国家である。だが、人々が無気力である故に平和であり、隷属のみを事とする国家は国家ではない。最晩年のスピノザ(1632‐77)はこう説いて、各人が「他人の権利の下にある」と同時に「自己の権利の下にある」ことがいかにして可能かを追求した。

スピノザ『国家論』(岩波書店)帯文より


最善の「国家」とは

 いきなり結論的なものをお伝えしよう。

 スピノザによれば、以下のようなものが「最善の国家」とされる

  • 国家において最善なるもの、かつ国家の目的とは、生活の「平和」と「安全」に他ならない

  • 人間が和合して生活し、そしてその法が侵犯されることなく維持される国家が、最善の国家である。

  • 最善の国家における「生活」とは、たんに動物に共通な諸機能によってのみ規定される生活ではなく、理性と真の精神生活によって満たされる人間生活をいう。

  • このような目的で建設されるべき国家とは、自由な民衆の建てる国家のことであり、戦争の権利によって民衆の上に獲得される国家ではない。前者は、恐怖よりも希望によって導かれるのに対し、後者は希望よりも恐怖によって導かれるからである。

 
 スピノザは、前作の『神学・政治論』においては、国家の目的は「自由」であるとしていた。しかし、『政治論(国家論)』においては、「平和」と「安全」が強調される。

 これはなぜか? という背景があるのだが、そのことについてはおいおい説明したい。

 スピノザが考える「自由」とは、個人が思い通りのままに行動したいという自由ではなかった。

 クルマ社会を例にとると、わかりやすい。

 ⑴ 全国の道路交通網=国家(個人の和合)が作る社会インフラ
 ⑵ 自動車=各個人
 ⑶ 交通ルール=法規則
 ⑷ ⑴~⑶が運用される状態=国家(個人の和合およびインフラやルールを含むすべて)

 さて、クルマ社会(=国家)において、個人の自由が最大限に発揮される状態とはいかなる状態だろうか。

 交通ルールなんて、クソくらえ! 俺は思い通りに自分のクルマを走らせるぜ、スピード(快楽)優先、信号無視、命の危険など顧みぬ。誰の指図も命令も受けない。これが、俺の自由だ!

 こう考える個人がいるとしよう。上記のような個人の自由は、当然ながら、他者の安全を脅かす。命の危険さえある。このように各々が勝手気ままに、自由な振る舞いをしたらどうなるか。

 道路交通網の安寧は保たれない。他者は、自由に振舞う個人の危険な運転に対して、怯えた状態でドライブする他ない。そこに、他者にとっての自由はない。そこで、国家の規制が入る。規制が厳しくなりすぎると、圧政にまで発展するかもしれない。結果、誰もが、クルマに乗ることさえが許されなくなる。もうそこに、(クルマに乗る)自由はない。

 反対に、みなが他者を尊重し、一定のルールを守ればどうなるか。事故は減少し、道路交通網の安寧は保たれる。誰もが、「快適な」ドライブを楽しむことができる。ルールを守ることによって導かれる、快適さ、これが本当の自由である。

 しごく当たり前なことのように思えるが、スピノザの言いたいのは、こういうことなのだと思う。

 国家(=すなわち私たち国民全員)が「安全」「平和」を目的としていれば、自ずと、個人の自由な生活につながるのである。よりよい生活=自由を求めれば求めるほど、それは、他者の尊重(配慮)が不可避、不可欠となるのである。

 他者を振り返らない、個の自由気ままな欲求の主張や行動は、他者を脅かすので、事故や争いにつながり、結果、自由とはいえない状態になる。

 スピノザの自由とは、「必然」=「法則」を、十全に認識することである。クルマ社会でいえば、交通ルールを守ること、クルマの性能を把握し、正しく乗ることこそが、必然の認識である。

※大谷翔平が、誰よりも「自由に」野球ができるように思えるのは、自身の身体の法則を誰よりも十全に認識しているからである。


最善の国家へと導くもの

 以上の、クルマ社会の例を、スピノザは次のように説明する。最善の国家に向けては、人間の本性、その「必然性」からくるのだと。

  • 国家は、理性において導かれるのではなく、希望や恐怖、あるいは何らかの共通の損害に復讐しようとする願望という、「共通の感情」において導かれる。

  • 人間は、「個」においては、自由であるばかりか、ほとんど無力である。何びとも孤立しては、自分を守る力を持たないし、生活に必要な品々を得ることができないから、孤立を恐れる念は、あらゆる人々に内在している。

  • 人間は本性上、生きるという必然性において、他者との和合=国家状態を欲求する。人間が国家状態をまったく解消してしまうことは、起こりえない

  • 人間は上述のように、理性ではなく感情によって導かれる存在であるため、国家の役割とは、治者ならびに被治者が、欲すると欲せざるとにかかわらず、「公共の福利の要求するところ」をなすように組織しなければならない。

  • 国家はすべての人が、自発的にせよ強制されてにせよ、また内的衝動によってにせよ、とにかく理性の命令に従って生活えざるをえないように組織されなければならない。

 
 スピノザが言いいたいことはこういうことだ。

 人間なんて、所詮、感情的に行動してしまう人間である。理性とか理想だけをいっていてもしょうがないのである。その感情的に行動する人間を、いかに「理性的」に従わせるかは、そのように行動する他ない「オペレーション」こそが重要であり、国家の役割とは、そのオペレーションをいかに敷くかなのである、と。

憲法概念の先取りとして

 
 続けてスピノザはこうも言う。

  • ある人間の信義のいかんにかかるような国家、また、その政務の正しい処理が、これを処理する人々の信義ある行動にもってのみ可能であるような国家は、決して安定性を持たない。

  • 国家が永続しうるためには、国事を司る者が、理性に導かれると感情に導かれるとを問わず、決して、背信的であったり邪悪な行動をしたりすることができないようなふうに国事が整えられていなくてはならない。

  • 国家の安全にとっては、いかなる精神によって人間が正しい政治へ導かれるかということはたいして問題ではない。要はただ、正しい政治が行われさえすればよいのである

  • 精神の自由あるいは強さは個人としての徳であるが、国家の徳はこれに反して安全の中にのみ存在する。

  • およそ人間というものは、原住民だろうと文明人だろうとを問わず、いたるところで相互に結合し、何らかの国家状態を形成する。国家がなぜ必要なのかという原因は、理性の教説の中に求められるものではなく、人間共通の本性、生きるうえでの必然性において導き出される

 
 スピノザはここで、ほとんど「憲法」のようなことを言っている。注意されたいのは、スピノザのこの時代にはまだ、主権をめぐる理論そのものが未整備であったのだ。

 憲法とは、憲法学者にとっては常識ではあっても、通常は「国家が国民を規制する」ものと誤解されやすい。憲法とは、そうではなく、「国民が国家を規制する」ためのものである(小室直樹)。※憲法と法律は異なる。

 主権の概念や、立憲主義の考え方は、スピノザ以後、18世紀に主流となっていくのであるが、スピノザが、人間(個人)の自然の本性として、生の必然として国家は生まれ、そのオペレーティングで国家による安全=国民の自由という考え方を導くというロジックが、いかに画期的かがわかるだろう。

 スピノザは、理性的な教説で国民を導くとか、信義を重んじるかどうかなどは、さして問題ないとまで言う。

 前者においては、ユートピア主義では政治はできない、とまで批判する。プラトンの哲人王の考え方(哲学者=優秀な人間を王とする理想国家の国政)などが、その代表だ。

 それよりも、マキャベリとかのような政治家の方が、政治思想ついては、よほどリアリティがあるじゃないか、とスピノザは指摘するのである。
 
 スピノザの考え方は、今日に日本の国政、都政のあり方などを見ても、そのまま、あてはめられるのではないか、というくらいにリアリティを持っている。

いったんのまとめ

 さて、結論から入ったが、そこだけ見ると、いたってシンプルな結論ではある。

 ――国家の役割、目的とは「平和」「安全」である

 これが結論なのだが、もちろん、ここから緻密な議論が演繹されていくわけだが、その緻密さの中身や、国家論を代表するホッブズなどの考えとの比較、違いについては、次の記事あたりで説明したい。

 ※スピノザの『政治論』はまずは権利や国家とは何かという定理(結論)があり、そこから具体的な政治形態などに関する詳細に至る、という書かれ方である。神という定理から、人間という詳細な分析へと流れる『エチカ』と同様である。

 スピノザの政治思想は、現代の人間からすると、意外と違和感なく入ってくると思う。それは今日のわれわれの社会が、普遍的な主権の概念、憲法の考え方の上に立っているからであろう。


※引用、参照はすべて、『国家論』スピノザ、畠中尚志訳(岩波書店)


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