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人は群れる生き物 エリック・ホッファーの『大衆運動』をヒントに


波止場で働く哲学者ホッファー

 ドイツ系移民としてアメリカはニューヨークで生まれた異色の哲学者、エリック・ホッファー(1902‐1983)の最初の著作、『大衆運動』。原題は『The True Believer: Thoughts on the Nature of Mass Movements』(1951年)。

 ホッファーは正規の学校教育を受けていないのだという。港湾労働者として働きながら思索を続け、発表した本が反響を呼び、哲学者として知られるようになった。大学教授になったこともあるようだが、並行して波止場での労働も、引退する65歳まで続けていたようだ。

 その鋭い社会分析は、現代における大衆心理や集団行動を理解するうえでも示唆に富んでいる。

 これまで大衆・群衆心理というものは、哲学、社会科学の領域において、さまざまに論じられてきたものである。大衆社会論としては、オルテガによる『大衆の反逆』が、大衆の支配がもたらす、民主主義の問題点や限界についてを照らし出した名著として知られる。

 また、第二次世界大戦時におけるナチズムの台頭が与えたインパクトは大きく、なぜ個人の自由が発生した近代において、権威主義やナチズムを生み出してしまったのかという問いにおいては、社会心理の側面から分析したエーリッヒ・フロムによる『悪について』(ちくま学芸文庫)などが知られている。

 大衆や社会心理の問題は、新聞やテレビといったマスメディアとの関係性においても分析されてきた。この「大衆」という言葉自体は、SNSといったソーシャルメディアが主流となり、マスメディアとの関係が変容した現代においては、もしかしたらリアリティがないのかもしれない。

 しかし、この「大衆社会」という問題は、メディアやテクノロジーの変容により、解消されたわけではないだろう。

 つながっていない個人を、「国民国家」として、あたかもつながっているかのように意識形成に寄与してきたのがマスメディアだったのに対し、ソーシャルメディアは、最初こそ「つながっていないが、つながっている」かのような、緩やかなネットワークを形成するものに思えたが、今はむしろ、「つながっているようで、つながっていない」という側面を加速させているようにも思えるからだ。

 むしろ、ソーシャルメディアとマスメディアが複合的に交り合い、これまでには見られなかったような大衆心理、大衆行動を生み出しているのかもしれない。

 先の都知事選挙を見ていても、日本におけるマスメディアの世代とソーシャルメディアの世代とのディスコミュニケーションが露わになってしまったように見える。(それは今も続いている…)

「大衆運動」に向かわせるメカニズム

 ホッファーの『大衆運動』は、宗教運動、民族主義運動、ナチズム、共産主義といった、これまでの世界史においてみられるさまざまな集団行動において、いったい何が人々を集団行動にのめりこませるのか、とりわけ狂信的段階を考察し、それらに共通する特性をあぶりだそうという試みである。

 現代においても、世界的にもナショナリズムが強まりを見せ、排外主義が台頭している。日常を脅かすテロリズムや、カルト活動などを理解するうえでも、今なおホッファーの洞察は色あせない。

 本書、『大衆運動』は、大きくは以下のよう構成になっている。

⑴ 大衆運動の魅力
 →大衆の欲望についてや展開の仕方が説明される

⑵ 運動に参加する可能性のある人々
 →どういった層の人間が大衆運動に引き込まれていくかの分析がある

⑶ 統一行動と自己犠牲
 →人間の共同行動と、それにパラレルな自己犠牲の精神が説明される。あわせて、大衆行動の教義や、信仰的な側面が説明される。

⑷  運動の発端から終焉まで
   →大衆運動の広がりを、具体的に言論者、狂信者、活動家とアクターごとの説明がされる

 ホッファーは、人びとを大衆運動に駆り立てる欲望として、

①「変化を求める欲望」と
②「身代わりを求める欲望」を置く。

①「変化を求める欲望」においては、ホッファーは以下のようにいう。

私たちには、自分たちの存在を形成する種々の力を、自己の外部に求める傾向がある・・・私たちはどうしても心の中で成功や失敗を事物の状態と関係づけるのである。それゆえ、願望が実現していると感ずる人びとは、世界を申し分のないものと考えて、これをそのまま維持したいと望むものに反して、欲求不満に陥った人びとは、過激な変化に賛成するのである・・・すべての原因を、自分以外のものに求める傾向は存続するのである。

『大衆運動』エリック・ホッファー著、高根正昭訳(紀伊国屋書店)より

 社会は常に成功者とそうでないものによる分断があり、このことは現代における格差社会を見ても変わらない。勝者と敗者という構造である。

 社会は、さまざまな層の人間による変化に対する抵抗と、変化を求める欲求とが入り混じった状態になるのだが、それは前者が成功者の願望で、後者がそうでないものらの願望かというと、すぐにイコールというわけでもなさそうだ。

 成功者であれそうでない者であれ、両者の欲求は「同じ確信」から生じるのだという。その確信とは、世界は偶然的であり、不安定であるという「未来への恐怖」である。

 成功者は、彼らがどんなに他の人間よりも「優れている」ことを自覚していても、絶対的な確信が持てない。彼らにとっても、社会は「バランスの不安定な機構」であるため、それらの機構がうまくいっている限り、それらを「いじり回すのを恐れる」のである。

 この「未来への恐怖」があるうちは、成功者であろうとそうでないものであろうと、変化への運動を求めることがない。両者とも、変化によって「今より悪化していくこと」を恐れるからだ。

 それに対し、現状への不満があり、かつ、「未来への希望」を熱烈に持つ人間こそが、変化を求め運動へと参画していく。その場合のプレイヤーは、歴史的に見ても、金持ちであろうと、貧困者であろうと変わらないのだとホッファーはいう。

 彼らは未来に恐怖するでのはなく、未来を「信仰」するのである。その信仰の強度は、「ベルグソンが指摘したように、山を動かすことにではなく、動かす山を見ないことに現れる」のである。

 続く②「身代わりを求める欲望」においては、以下のようにある。

人は、自分自身が顧慮するに値するときにだけ、みずからのことを心にかけるもののようである。自分のことが顧慮するに値しなとき、彼は他人のことに気を回して、無意味な自分から心をそらすのである。このように他人のことに気をまわす現象は、うわさ話や、穿鑿(せんさく)や、おせっかいの形でも現われ、また、自治体、国家、民族の問題についての熱狂的な関心という形でも現れるのである。自分自身から逃避するさいに、われわれは、隣人の肩にもたれかかるか、その喉に飛びかかるのである。

本書より

 
 人は、自分自身のことに熱狂しているうちは、自分のことだけを心掛ける。例えば、企業で働くことなどにおいてはそうなのだという。それらのプレイヤーを支えているのは、主として「私欲」に関する、出世や報酬である。

 しかし、一度、自分自身への絶望や、社会に見捨てられたと感じるものは、自己よりも他者(社会)に目がいく、ということだろうか。他者に目を向けることで、無意味な自分自身のことから、気をそらすのである。

SNSにみられる現象?

「他人のことに気をまわす現象は、うわさ話や、穿鑿(せんさく)や、おせっかいの形でも現われる」という状況は、現在のSNSに見られる状況を想起させる。

 SNSという、見えない多数者と一なる個のつながりの状況、その電子上のコミュニケーションは、言葉一つで、他者への共感にもなりうるし、反発にもなる。SNSへの過度な依存は、「隣人の肩にもたれかかるか、その喉に飛びかかる」という事態を見せている。

 もちろんホッファーの時代に、ソーシャルメディアはない。ホッファーはあくまで「大衆運動」に向かう人、そうでない人の特性を語っている。しかしその分析は、現代社会の構造にも当てはまる普遍性がある。

 大衆運動へと人を駆り立てるものは、出世や報酬といった「私欲」ではなく、「自己放棄の激情を満足ができる」かどうかなのだとホッファーはいう。

大衆運動は、欲求不満を持つ者に、自我全体の身代わりを提供するか、そうでなければ、欲求不満を持つ者が自分自身の個人的資質からは呼びさまされないけれども、人生に生きがいを与えるはずの要素に代わるものを提供する。

本書より

 
 こういうわけで、自己に絶望した人びとは、その喪失感を他者で穴埋めしようとする。その際に、その他者への関心が、自我全体を代替するものになること、あるいは、「人生に生きがいを与えるはずの要素に代わる」ものを求めるのである。

 ホッファーは、ここでも信仰というワードを出す。「人生に生きがいを与えるはずの要素」とは、ずばり、「神聖な大義」への信仰なのだと。

神聖な大義への信仰は、かなりの程度まで、失われたわれわれ自身にたいする信頼に代わる身代わりの役割を果たすものである。

自分自身が優秀であると主張する理由が薄弱になればなるほど、人はますます、彼の属する国家、宗教、人種、あるいは神聖な大義が、優秀きわまりないと主張する傾向がある

本書より

 こうして「うわさ話や、穿鑿(せんさく)や、おせっかいの形でも現われ」ていたものが、「自治体、国家、民族の問題についての熱狂的な関心という形でも現れ」ていくのである。

 このように、ホッファーは、「大衆運動」に向かう動機を、人間の感情、欲望の側面から説明する。

 そして「大衆運動」というものは、「形態」はじつはなんでもよく、「人びとがある大衆運動に参加したがっているとき、彼らは、ふつう効果的な運動なら何にでも参加したがっている」とさえ言い切る。

一つの大衆運動は、たやすく他の運動に変化する。宗教運動は、社会革命にも民族運動にも発展する可能性がある。逆に社会革命は、戦闘的な民主主義にも宗教運動にもなり、また、民主主義運動は、社会革命にも宗教運動にもなる。

本書より

 これらは、宗教改革、フランス革命、ボルシェヴィキ、ナチス、シオン主義などにも共通してみられる側面だとホッファーはいう。

 ナチズムにおいても、ホッファーはこう分析する。

戦前のイタリアやドイツでは、実際的な実業家が、共産主義を抑制するためにファシストや、ナチスの運動を激励したけれども、そのとき彼らは完全に「理論的な」方法で行動したのである。しかし、そのように行動しているうちに、これらの実際的かつ論理的な人びとは、彼ら自身を一掃するしていたのでもあった。

本書より

 この考察も示唆的である。世界的に起きた、さまざまな大衆運動がもたらしたものでが何であったかは、現代のわれわれは「事後的」に知ることになるのだが、それぞれの運動は、それぞれの「論理」によって、大衆に支持を受けているのである。

 ホッファーは、このあと、自己犠牲と人間の共同行動についての分析に入り、大衆運動の「狂信的段階」にまで踏み込むのだが、本記事ではこのあたりにしておこうと思う。

ひとまずのまとめ

 大衆心理、集団の行動というものは、社会構造の分断をきっかけに、それぞれの欲望、欲求において起きうるものだということ。

 そしてその欲望が、自己への絶望から他者への関心に転じる時、変化を求める運動へとも、人を向かわせるということ。

 その運動の大義が崇高であればあるほど、それは参加するものの喪失感を満たし、より自己犠牲、他者へのコミットメントが強くなり、ひとつの信仰にもなるということ、をホッファーは教えてくれる。

 日本社会においても、格差という社会の分断は深刻だ。現在の日本は、かつてのような、社会運動は減少しているように見える。

 しかし、政治だけでなく経済においても国際的なリーダーシップを失い、きわめて危機的な状況にある今、「大衆」が、より巨大な<運動>へと向かう兆しは、すでに現れているのかもしれない。

 ホッファーがいうように、運動には「神聖な大義名分」というものが必要とされる。そんなものが、今の日本にあるだろうか? と思われるかもしれない。

 しかし、それら大義名分というものは、あとからいくらでも現れてくるものではないだろうか。

 例えば、今の日本は、世代が下がるにつて、日本国民であることに誇りを持てなくなっている傾向にあるようだ(※)が、「自治体、国家、民族の問題についての熱狂的な関心」は、いつ現れるとも分からない。

 ワールドカップやオリンピックのようなビッグイベントの時に、瞬間湯沸かし的に現れる「日本人」であるという同朋意識は、われわれ国民に見え隠れしているナショナリズムといってよいであろう。

 欲望が先に来る。そしてそれが行動となる。大義名分はあとからやってくるのである。その時、同じ大義により調和した<個人>は、集団においてどのように振舞うことになるのであろうか。

 それは、先の歴史が示したような事態を繰り返すだけなのか、そうでない新しい大衆の力というものがありえるのかは、今はわからない。

 一つ言えるのは、フロムが『悪について』で問うていたように、人間は集団において「羊」になるのか「狼」になるのかは、もはや善悪の問題だけでは解けないであろう。

 SNS社会を経て、われわれは集団というものが、それがいくら架空のつながりのものだと理解していたうえでも、人は「羊」にもなるし、容易に「狼」にもなるということは、知ってしまっているのであるから。


※<参考>
「日本を世界に誇る国にしたい」若者は4割未満、世代による国家観のズレ【政治に関する意識調査結果④】
https://note.com/pmi/n/nf0c907182207



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