教育に関わる取り組みはなぜ不毛なのか?
なんだか最近他人様にイチャモンをつけることが日常化していてイカンなぁと思う次第。
毎日書くにしてもたまにはお堅いことも、というよりは真面目に書いておく必要があるんではないだろうかと思い直すことがある。アウトプットにはそれを振り返る側面もあるのだろう?ここで思うのは子どもの振り返りになんの意味があるかということ。さてうちの子たちにはここまでの振り返り能力が備わっているのだろうか。否。振り返りというのは知識、経験、そして何より先見性が必要な作業だと思う。慣れ親しむにしてもやはりお世辞にも最近接な領域であるとはいえないと思う。やれる時にはやれることに全力に取り組みことが必要だと思う。
その思いつきの前ふりから今日は妄想系で参りたいと思います。
今、教育学が果たすべき役割というのは何なのかと言うことです。
学問体型について私如きが語るような話でもないと思うのですがそこは無視して考察してみたいと思いますということです。
というのも今の教育というのは学問領域が細分化され過ぎています。それはいいのですがそうした領域を俯瞰する役割は必要であると思います。教育学には少なくとも各領域の成果について取りまとめ教育的な位置付けを行う研究が必要だと考えています。少なくとも現時点では寡聞にして聞いたことがない。できない理由は簡単。学者として他の人の専門領域に土足で踏み込むことは御法度だからです。これは内田樹さんなんかも指摘されていたことです。位置付けや上位下位など、また反論の作法についてなどさまざま問題はありましょう。しかしそれは一旦さておいて教育学が教育学の手法・観点を使ってそうした研究について取りまとめていくのが良いと思います。
なぜそうしたことを考えるに至ったかというと、今の教育にまつわる学問はてんでバラバラに発言をし過ぎていて現場の役には立っていません。研究を俯瞰してみて少なくとも私はそう思っている。研究自体に価値がないと言っているのではなくそれが実際に役に立つポイントに立てていないという意味です。少なくとも私は現場においてそうした研究・大学に対するアンテナは非常によく働いている方だと思う。その私がそう思うのだから・・・ということです。そもそも教育言説というのはそうでなくても好き勝手に語られる性質を想っている。これは教育言説をどう読むか、教育論争はなぜ不毛なのか、などの書籍でも触れられていることである。それはそれで良いのだが、今の教師というのはそこまでは手が回らないことが普通。つまりそうした研究や提言というのは現場には全く届いていないわけです。ときには逆の意味として全くの誤解を持って受け止められていることもあるわけです。職員室の会話を聞いていて訂正するのも面倒なのでスルーするというのは私にとってはよくある日常です。かくいう私もそういう日常会話を対話に持っていくほど時間に余裕があるわけではないし、そもそもその対話が鬱陶しがられることぐらいは予測がつくわけです。その研究は職員室の人間関係にまで疵をつけようとしているんです。それはまあ冗談として。話を本筋に戻せば。
例えばGIGAと同時に働き方改革の話が起こる。これは今まさに起こっていることですが、これは正直真逆の運動なわけです。それを同時に議論することはそもそもが無理筋です。そこにそれならということで教育DXの話を持ち出す人間がいる。これを枯れた技術の水平思考とするなら、もしくはイノベーションのために問題の掛け合わせとするならその人は完全にノーセンスです。
なぜならまずGIGAも働き方改革も枯れた技術ではない。そのものが非常に労力が必要な新規性をもった課題であるわけです。そういうことは水平思考で持って「売れる商品」にすることはできない。まず最初に枯れさせる努力を長年しなければならない。(おそらくどちらも枯れた技術になるほどの長生きはできないまま中途半端に打ち捨てられることになるだろうと思います。理由は簡単、どちらもまともな研究者が腰を据えて研究している領域ではないからです。)さらにGIGAと教育DXは現場では全く関連性のない新規事業です。おそらく口ではGIGAの有用性と教育DXの便利さが強弁されると思いますが、その関連性のなさはただの労働強化としてしか現場には表出することはありません。実際現場では今の現場の教職員の9割方はこうしたことに関わるつもりすらない。そうした技術もなければそういう教育も受けていない。そしてそういう思考もなければ時間の余裕もないというないない尽くしの状況です。
片面だけ見てもそんな具合です。アホらしくてこれ以上分析する気にもなれません。
単純にこうした問題提起による議論形式は現場の邪魔にしかならないわけです。それがたとえ教職員のための想った働き方改革の話であってもです。休憩時間をきちんと取る議論が結果として労働拘束時間を増やしたり、残業時間を一律で無理やり数字上減らそうとして一部の若手や責任感のある人に業務が集中して心を病み労務災害が起こっていたりすることを完全に無視しているわけです。
研究上、数字が少なければエビデンスとして作用することを認めてしまうことはある試みを行った結果百人は救われるけど一人は死にますという話を是認することになります。有名なトロッコ問題です。こういう問いの立て方をする人間に問いたいのは「ではあなたが率先してその役割をしてくれるんですね」ということです。研究者というのは、もしくはそれに類する発信を行なっている人たちというのは少なくともその問いには正対してほしいわけです。
今の無茶な教育議論や思いつきの通知は常に現場にはそうした危険性を孕んでいます。いわゆるバタフライ効果というやつです。良かれと想って提言していただいているのだろうけれども大変迷惑です。
さればこそどこかによってきちんと公平な考察がなされて交通整理されないと現場はこれ以上の無体にはお付き合いできないよということです。(それどころか完全に無視する教職員を育成する役割を果たしてしまいますよ。学校管理職とか指導主事というのはそうした無駄な話に考察を加えることを、伝達することを本務と考えているのですがまともに取り合う人間などいませんから)
そこを教育学に担っていただきたいなあと思っては見たものの、書いているうちにやっぱりイチャモンの塊のようになってしまいました。せっかくなので苅谷剛彦さんの本の題名をお借りして今日の題名にしておきます。「教育に関わる取り組みはなぜ不毛なのか」ですね。
今の現場には他に考えなければならないこと、解決しなければならない課題が山積みなわけです。それにかかずらう暇はありません。もう少しこうしたことに心よせてほしいと思います。