教員礼讃、子ども礼讃記事はたくさん読まれるし、スキもつくでしょ。でも・・・苦言箴言の効用。
読みたいものを読み、読みたくないものは目に入れない。
そうした感覚は分からないでもない。
しかし、教育に携わる人間としてはそれではダメなんでは?と良く思う。苦言に耳を傾けることをストレスフルであっても・・・教員というのはそうしたことと向き合うことを職業倫理の一端とする必要があるのではないかということです。なぜか?
学び続ける必要性に対する苦言
まず学び続ける必要があるからです。
それはひとえに教育という営みには深めれば深めるほど確定的なことが言いにくくなるという研究的な側面があるためだと思います。
わけ知り顔で教育を語る人間というのは大学教員も含めて基本的に断定的にモノを言う傾向がある。それは非常にシャープに見えてカッコいいのだがその中身はほぼ間違っているということになっちゃいます。
この前も私の実践を見た附属学校所属の小学校教員(いわゆる上級教員としての自意識が固まっている人)が「この授業は目標が何一つ達成されていない」と断じた。この瞬間「あらあら?」と思ってしまった。いくつか問い質したい点があったが大人なので言わずにおいた。これは教育実践検討では助言者がよく吐く決まり文句、葵の御紋みたいなもんである。これさえ言っときゃなんとかなるみたいな。
目標設定したのはもちろん私である。これをしないことには研究授業としての目安がないからである。しかし彼がまずわかっていないのはその目標はどのレベルまで達すれば良いかを示さないままに達成できていないだけを口走ってしまったところにある。
特に国語教育というのは実は目標設定自体がかなりあやふやことが多い。(極端なことを言えば今の日本型の固定的かつフワフワした国語教育は教科の枠として最も必要ないと考えている。識字率とは直結していても国語力と直結していないから)
それなのに筑波大附属の連中というのはかなり確定的にロジカルに、そして確信犯的に決めつけの読みと書きを行っている。
私のように文学に留まらずテクスト論ですら不自由な読み方だと思うタイプの人間にとっては固定的な読みを押し付けることで子どもが読めたことにしてしまうという乱暴な目標達成には不快感しかない。自分たちの実践はできたと言い張り他人の実践を評するときはできていないというのである。さらにその時間の目標については目安に過ぎないのにそこに注力し過ぎている点もバランスが悪い。このバランスというのは教育を担う場合、担任にしか全体的に按分しにくいモノであるという前提が教育現場であまり理解されていない。後述する謙虚さとは相反する姿勢なのだかそれが学級王国の王様たる所以なんだろうと思う。ある児童の特定の問題点に注力することばかりをお願いしてくる保護者というのは学級内のバランスについての理解がないということである。これに対して理解を求める発言ができるのは教育委員会でも学校管理職でもない。もしこれらがそれをすればただの言い訳であり隠蔽工作そのものになってしまう。全体を見ること、理解を深めようとすることにこそそれを語る価値が生まれるからである。それを持って信頼感に変えるというのが教育における資本主義の構造ではないだろうか?それたが・・・
さてあなたはこうした人間たちにどう向き合いますか?というのがまさしく学び続けるということの意義になるということです。
断定的に決めつけて回避することを学んでもいずれ破綻することになってしまいます。筑波附属の教員たちは教育学部の実務家教員になっても教育現場には何も資することはありません。彼ら彼女らは社会モデルを作ることはできず、ただ「教職員の引き出し」をたくさん揃えることにしか能力を発揮できないからです。そうした本を出版しまくっていきますね。そうした専門性しか持ち合わせていない。それは教育学系の大学教員に必要な研究ではなく、現場の教員が持っていれば良いだけの代物です。しかもこうしたものは極力マネではなく、偽であっても発見である方が良い。こうした道筋は教員養成系大学の教科教育という謎の研究領域も同様です。しかもそうした引き出しが一律化することを批判したのが「個別最適」という言葉の一端です。そう、こうしたことを指摘し解決への道筋を示すのが大学教員の仕事なんです。文科省の提言や通知というのは常にそうした矛盾を包み込まざるを得ない状況にさらされているんです。
それに正対し、子どもと保護者に正対していくためにも広く浅く学び続けることは骨の折れることですが必要なことなんです。そのための推進力としての苦言との向き合いです。まさに弁証法。
謙虚であるための苦言
さらには「謙虚」をどこまで貫けるかという課題が教師にはあります。これは先ほどの学び続けるための推進力とは真逆のブレーキ役です。とあるYouTubeで(お前はほんとにどんだけYouTube見てんねん)有名人になりかかっている若者が「調子に乗ったら地獄行き」という言葉を額の上あたりに常に掲げていると言っていたことに近い。そりゃ「先生、先生」言われれば政治家でなくとも調子に乗っちゃうもんです。しかも日本の大人というのは面と向かっているうちはおべんちゃらしか口にしないという超建前国家の住人です。裏ではボロクソというのは職員室あるあるです。保護者にしても同様。最近の若者は結構正直なんですけどね。まあどんな状況でも本音しか言わない私のような人間は社会不適格なのかもしれませんが・・・
苦言と向き合うことによって謙虚さが保たれるというのは非常にわかりやすい話だと思います。しかしそれは人間性を否定するような苦言である必要はありません。たまに自分はデキると思い込んでいる教員の中には、教育を論じるとき他人の人間性に踏み込んだ発言をする輩がいますが、それは良い意味であっても悪い意味であっても教育と直結させるべきではないと考えます。
教育論的な苦言というのは、一般的な教育という概念との自分の実践の正対です。信念の強すぎる人間が困りモノだというのはヤン・ウェンリーの名言です。そうした人間は謙虚さが足りずに失敗すると意味だと思われます。自分の信念や矜持に対するそうしたブレーキをかける振り返りというのは誰かと共同でやるモノではありません。もちろん協働でもない。一人で自己内でやるもんだと思います。将棋の反省戦だって心情的なことは抜きにして技術的な話しかしないでしょ。もちろん教育というのはルールがそこまでかっちりしていないのでその区分が難しいのはよく分かりますがね。
子育てと対峙するための苦言
最後に教育は子育てとは違うということ。しかし子育てをおこなっている人と協業しなければならないというアンビバレントな立場に立たねばならないという矛盾を抱えている。
子育てをしたことない人間に子育てのことはわからないなど言う排除的な台詞を吐く気はないが、そうした側面があるのもまた事実である。配慮した発言はできても真に迫ることができない弱さというのはどうしてもある。しかしそれは子育てをしていてもきちんとコミットできていないが故に筋違いな発言をする人がいることから見ても必須条件ではないのだろう。さほど子育てというのは個別性が高くて共通の道徳性とは程遠い話になっているということである。私は子育てというのはどんな状況にあっても批判の対象にはならないと考えている。教育と違って。たぶん介護もそうです。社会的子育ての側面を強調する組織に保育所や学童保育がありますがこれも別に教育である側面の方が多い。たぶんいい加減が許されないからです。家庭や子育てには個別のルールや道徳性が確立していてそこには一般的な感覚とはかけ離れたモノもその成員には許容されるということがままあってそれがいい加減であることはよくあることです。
教員として子育てと向き合うということは、学校のルールとは違う文化と接することに他なりません。それは担任の場合クラスルームの人数分の文化との対話になります。これ自体なかなかの苦行だし、それを飲み込むにはかなりの大きさの感情的な余白が必要になります。
そうした人間的な深みを獲得するには普段からそれくらいの人生経験に変わるような時間を過ごしておくことも必要だという意味での苦言。そういうことになるかもしれません。それは湊かなえさんのいやミスを読んでそうした悪に対する嫌悪感を育てたり、東野圭吾さんの不倫ものを読んでそうしたことに近づくと碌なことにならないことを学んだりすることに近いのかもしれません。実際には体験していないことをさも体験したようにしてしまう役割を苦言が効率的に提供してくれるとみればそう悪くないでしょう。
こうした覚悟は教職全般に必要なわけではない
しかしはっきり言っておけば、こうした感覚を教職員全員が抱く必要はないです。そんなことをしてしまえばそれこそ教員などやりたい人間が減ってしまうことになるからです。向いているけれど諦める、そういう心性が教育の成果として若者には染み付いてしまっています。そもそもそういう覚悟まで持って教職を選択する大学生は今存在しません。だからそれをわかっていて教育委員会もペーパーティーチャーのようなヌルい人材で数合わせに終始しているわけです。そうではなくて仕事のやり方によって立ち位置を変えやすくするのがよいのでは・・・という提案として、この前に述べたように
「業務特化型」教職員と「教育探究型」教職員で区分けして、教育探究型の教職員が業務としてこうしたことを研究したり、修養したりすればよいのではないかという提案になります。
なぜならさまざまな学校内で教職員全員にこうした苦言の対話を実現しようとして足掻いてみたのですが、やはりそうした積極性の実現は業務としては相当難しいということが一定証明できたからです。一律に新しい取り組みやOJTを取り入れながら通常の業務を行なっていくことは、教育現場ではもはや無視筋だということも確定しました。
令和の日本型学校教育やGIGAの取り組み、教科道徳や外国語というのは明らかにもともと規定されていた教職員の固有業務ではないということです。やるならそのエビデンスは大学教員の思いつき理論ではなく、明確な予算措置が必要だということになります。そうはなっていないのがこの国の教育政策の不思議なところです。これはおそらく給特法も含めて文科省に教職員に対する定額働かせ放題の発想が染み付いている証拠です。これに対する明確な異議申し立てが教員採用試験の倍率や休職退職教員として顕在化したに過ぎません。
まあ、教員は全方位敵だらけという困った状況です。
誰しも嫌なことに触れていくことで成長エンジンや調子に乗らないようにしていく要素として採用することは心地の良いことではありません。しかし学校という場が常に子どもの生殺与奪の鎌を握っているかもしれないという戒めを、職業倫理とは別に持っておかねば「調子に乗ったら地獄行き」を引き止める術を失ってしまうような感覚に陥ってしまうように感じます。
しかしこれは誰かに言われて行うように道筋をつけてしまうと、それはそれでおかしなことが起こってしまうので自発的に、かつ自己抑制的に行われなければ意味がありません。
さしあたっては、個人的に黙々と省察してアウトプットするという習慣で実践していくぐらいが現実的なのかあと思います。それでも教職大学院なんかにカネ払っていくよりは、より多くの文献にあたっているし書いている文章の量も何倍もあるだろうけれども・・・