多忙への教員としてのコミット

 教員は多忙なのだろうか?
 実はこれ自体が重要な問題なのだと思う。
 なぜならもし多忙でないのなら、こんなに騒いでいること自体がさらに悪影響を増やしていくことになるからである。
 
 似たような話。国立大学にカネがないのは事実だと思う。しかしそれは稼がないで無駄遣いをしたからだけの問題である。果たして日本人はそんな家庭に生活保護を認めるほどの器量を持っていると思っているのだろうか?そんな日本になるような論理構築しかできなかった大学教員が所属する大学が今更何を言っているんだというだけの話である。光熱費があがろうが、原材料費があがろうが一般家庭は今の収入でなんとかしているのに。
 そうすれば大学教員どもは役割が違うだの、博士課程がどうの、日本の技術がどうの、国際競争がどうのと宣うのだろうけれども、それは今に始まった事ではない。確かに文科省の政策に、財務省の姿勢に、政治家の無能さに一因はあれど、国立大学法人になった時点で予想はついた話でしょ。大学教員なら。なぜ20年もあってこれを何とかする仕事ができなかったのでしょうか?国大協。国大協自体が学長経験者の天下りというかハクをつけるための団体でそもそも経団連なんかと同列の国民をバカにした既得権防衛組織である。
 ただ言えること。こうなる前にできることがもっとあったでしょ。

教員の多忙の実像

 全く同じことが学校教育現場に言えると思う。
 教員の成り手不足、人材不足はメディアが報道する以上に深刻ではあるが、誰かの責任を追求するだけ、責任はなすりつけるだけでは解決には向かわない話であるということ。
 これだけやっていても現場は回っていかない。文科省や教育委員会制度(私は個人的に教育委員会が問題なのではなく制度に問題があると思っている)の制度設計に頼ったり、文句を言ったり、申し入れをしたりしているだけでは国立大学の二の舞になるだけである。
 ちなみに今回の国大協の声明は潰れる半年前の企業が出すプレスリリースもしくは決算報告書にとてもよく似ている。これがデモンストレーションであったとしても先は見えてしまったわけである。

 では多忙化にも教員として正対していかなければならないだろう。
 私はこれまでの多忙化報道というのは、総じて教育現場の誤読の産物だと思っている。なぜならそのほとんどが労働組合によるリリースの受け売りだからである。ちなみに労働組合の意見表明は現場の声とイコールではない。盛っちゃうからね。これは教育の労働組合にいささかも関わった人間としてはっきり言える。

 一番最初に教育現場の多忙化が言われたのは、大阪で部活動調査が行われた頃だと思う。私の記憶が正しければ、30年ほど前になるかな。教員の仕事が多忙化するのは部活動のせいだという結論だ。バーンアウトいわゆる教員の意欲の燃え尽きにつながるという論理構成で教員の状況を示そうとした。この調査には若干関わったのだが、この頃から実はこの論理構成に違和感の切れ端のようなものがあった。その頃は未熟者だったので言語化できなかったが、今ならイケそうな気がする。

 部活動の多忙化は、雰囲気で作られている。しかも結果ありき。その結果というのは大会を作ること、組織を作ることでより強化されていく。そしてその組織を巨大化させ集金マシーンにしていくことに腐心する。一番わかりやすいのは甲子園。そこまでいかなくても似たような話ばかりが転がっている。
 もう一つはスクールウォーズや金八。学校の課題を部活で補おうとしたイメージ。熱血教員になること。それと教育者ではなく、スポーツ指導員という仕事につきたい人間を呼び込む役割を果たした。日本にはこうした仕事のパイが異常に少ないからである。今でもこうした仕事に憧れのある半素人がボランティアと称して河川敷で子どもに野球やサッカーを教えているが、あれは色んな意味で危険な行為です。
 つまり部活動はこうした大きな流れの中で学校という組織と教員が大事に大事に育て上げてしまった多忙なのである。もちろん教員も一役買っている。今でのこの燃えかす中学校教員が丸刈りの強要という時代錯誤をやらかしたが、これも雰囲気が生み出した流れに学校が抵抗できなかった現れである。なんで?と思われるかもしれないが、こうした大きな流れというのは海の波のようなもので通常では個人の力では抵抗できるものではない。たとえ学校管理職であっても。こうしたことに抵抗できるの頭のネジがぶっ飛んでいる私のような人間だけなんだろうと思います。常識人にはムリです。

 実は今でもこの考え方は援用できるのはないかと思う。
 なぜなら現時点で語られる学校現場の多忙化は、働かせ放題とかやりがい搾取とかブラックとか言葉を変えているが本質は昔と全く変わっていないからである。ではなぜ給与体系はより無茶苦茶になったけど休暇制度はだいぶんマシになっているのに、こんな体たらくになっているのか?
 それは多忙へのコミットの仕方が間違っているからではないのかということです。学校現場の雰囲気と制度疲労へのコミットが必要です。

 見方としては内なる多忙化と外からの多忙化が対象によってマトリクス化していきます。
 内なる多忙化は対象成員が教員同士による多忙化と子どもによる多忙化です。外からの多忙化は身内による多忙化と保護者を中心とした環境による多忙化です。

 一番タチが悪いのは、外からの身内による多忙化です。私ならこれは完全に無視するのですが、常識的な人は文科省の手先たる教育委員会制度からの意味のない調査や研究の要請をきちんと引き受けます。ちなみに完全無視したい私でさえ先週は授業中も含めて8時間近い時間をこの種の業務に費やしました。(たまたま非常に細かく計測しました。あるテストの集計を担任がすることになってイラっとしたので)これが教育環境の改善に寄与するなら喜んで引き受けるのですが、教育環境は右肩下がりです。しかも現場には無報酬、無還元にも関わらず、これに関して外郭団体や大学、委託企業に税金が堂々と投入されているんですよね。あまり頭の良くない国立大学教員の調査にも20分ほど費やしたので科研費以上の費用が税金で投入されているはずです。こんな無意味なことにカネを使っていれば苦しくなって当たり前です。無報酬で集めたクソみたいなデータで雑文を書くことを授業料に転嫁するような組織は潰れてしかるべきだと思うのですが・・・
 そう身内というのは身内とも呼べない文科省傘下のグループ。よく言われるように国立大学法人の学長は文科省の課長レベルの扱いしか受けないというハナシ。国立大学法人は文科省の天下り団体です。そりゃ大学改革を任せるのは無理筋。実は学内政治にもならないくらい力関係ははっきりしています。教授会は文科省の決定には逆らうことはできません。
 非常に筋の悪い関与の仕方です。下請けにムチャを言うことで自分たちの仕事を作り出すやり口です。無視するに限ります。こうした組織そのものを積極的に解体する方が改革につながるのですがね。

 保護者対応が多忙化を生み出すことはよく言われることですが、正直ここは個人的には丁寧に対応するのが良いと思います。たとえ多忙化につながったとしてもです。この辺は働き方改革の人と話が合わないところです。もちろん地域とも共存すべきだと思います。

学校現場での多忙を個別最適に改革するために

 まずは子どもとの関わりの中で生まれる多忙。ここは致し方ない。保護者同様に。もちろん難しいことが昔に比べて増えている。怪我をしやすく、精神的に幼く、給食を喉に詰めてしまうことにまで注意を払わなけらばならない。クラスづくりや授業改善に取り組みながらである。
 でも厳しくしても子どもという生き物はついてきてくれるんですよ。私の給食を山盛りにしてハッピーバースデーを熱唱し始めるんですよね。誕生日でもないのに。おいおいカロリー過多で死んじゃうでしょってツッコむとさらに喜ぶという意味不明ループです。

 やはりクラスルームというのは重要です。担任をやってて、毎日楽しく学校に来て子どもが全員揃うというのは何にも変え難い幸せであることを後輩に伝えていく必要に駆られます。
 これを解体する働き方改革にはやはり賛同するわけにはいきません。学級担任持ち回りや教科担任制は明確に若手の教員を補助できないからです。こうしたクラスルームづくりの障害になる部分を分け合うのではなく、そこそこの強権を発動してでも負の部分を排除していくことが教員が働いていて良かったと思える心情を育成すると思います。これこそ教職の自己肯定です。自己肯定感が嫌いなので、あえて途中で止めてます。

 そのためには教員がクラスルームにいて楽しいと思える、いつまでも居たいと思えることが重要です。今、個々の大きな阻害要因は一番に保護者、二番目に特別支援教育対象児童やグレイゾーンの子どもです。これでほぼ全てではないかと思います。

 誤解なきようにいっておきますが、そうした人間自体を排除しましょうと言っているのではありません。そうした人間にそう考えさせるに至った要因を排除しましょうと言っています。私の仮説ではここに具現化されるほとんどの要因は管理職と地域が50%、所属する、所属した教員自体が文化的に作り出しているものは残り半分、若干は個人的な事情ということだからです。つまりこの無責任な文化規定を的確に掴み個人で抵抗すればクラスルームの雰囲気というのは教員個人の自己肯定に合うように変革することが可能なはずだということです。管理職は結果さえ出ていれば文句を言わないものです。もし失敗してもどうせ責任は校長にあります。

 これをきちんと若手に伝承していくことは私の教職にとって現在とても重要な位置を占めています。管理職にならないから尚のことです。

 しかしここに最大の阻害要因が立ちはだかります。それは教員同士による多忙要因の醸成です。
 学校の雰囲気は、実は何をどうあがいても全員に合うようにはなりません。飲酒や家族における冷房みたいなもんです。飲んでいる時は飲み足らず飲んだ後は飲み過ぎたと感じる。暑がりな人間にとっては温度が高すぎ、寒がりな人間にとっては温度が低すぎる。ちょうどにはなりません。特に学校という現場はどうしても風通しが悪くなりがちです。
 無理してポジティブを醸し出してもそういうのがキライな私みたいネクラな人間が教員には結構多いんです。多忙化を避けるために非常にドライにしたってそういうのを冷たいと感じる人間も多いのと同じです。
 特にうまくいかないことが前提の職業ではその傾向は多くなります。その点ジョッキーとかには勝ち鞍とかG1勝利とかがあるので明確な指標があるので救われる余地が大きいんですが・・・。

 ここで重要なのは雰囲気を個別化することに特段の尊重と配慮がなされるかという視点です。そういう学校組織というものが存在するのかすごく興味があります。うちは仲がいいですよという人間がいる学校ほど中身はバラバラというのは実はありがちな話です。しかも外から見るのと内側で足掻いてみるのでは見え方がだいぶ違います。
 であるからこそ毎年のように転勤希望を出して多くの現場で校務の内容にまで深くコミットしようしています。定年までに20校越えが今の密かな目標です。そうすれば自分も学校組織を形成する要素を知れるし、数多くの若手にたくさん要素を手渡せるからです。
 そうすれば教職を途中で諦める若手、とりわけ女性が減り、講師が積極的に正規採用を目指すと考えます。そのために教員同士による多忙化を醸成する要因は極力排除していかなければなりません。

 最後に大事なこと。
 この若手への手渡しをする上で今私が学校組織マネジメントを目論んでいる仮説を言語化しておきます。ものすごく前置きが長くなってしまいましたが、今日の本論はここです。
 教職の自己肯定が誰からも承認されることが大事です。今は教職が多く人間から信頼されていません。そもそも文科省が教員を尊重していないことがさまざまな通達として可視化されています。これをメディアが喧伝してしまっていれば保護者や子どもが学校を尊重するわけがありません。しかもこの馬鹿げた状況を完全に我が物にしてしまっている管理職や大学教員・教育長は害悪以外の何者でもありません。
 しかしこんな状況でも教員個人が信頼を得る方法がないわけではありません。学校としてうまく振る舞う方法がないわけでもありません。その仮説というのは、一つはクラスルームを尊重する学校づくりをすることです。クラスルームを解体する最も大きな取り組みは実は特別支援教育です。これに付随する取り組みは数多くあり、不登校学校や学校内フリースクールや保健室登校です。そして教科担任制や複数担任制は同様に教職の自己肯定を破壊していきます。すごく昔からある教職の聖性(多分今の教員は誰も知らないんじゃないかと思うけど)という話とも接続するのだけれども、教職を労働して細分化することはマルクスもいうように労働に意味をなくしていきます。疎外という概念ですが、教育にとっては明確な阻害であります。
 クラスルームの子どもを分割し、教員の労働を細分化していけば教員は労働そのものに意味を見いだせなくなっていくことは別に新しいロジックでもなく古典です。
 教育に一家言もつほどおエライ大学教員様が非常に有名な部類に属する古典を読んでいないことがバレバレなんですよね。諸外国の博士課程に比べて格段に教育能力の低い我が国の博士をお持ちの勉強不足人間たる大学教授が属する国立大学法人などの国際競争力を望むべくもないでしょう。
 それましたが、そこに明確に抵抗していくためにやはり学級担任制の良さは発信していかなくてはなりません。それどころか博士課程まで学級担任制は広げていくことも考慮に入れなければなりません。
 実は一度大学は担任制を導入しようとして挫折しています。学級王国という言葉がありますが、実は今の学校現場では偉そうに振る舞う人間は担任としては成功するとは言えません。それはプロ野球の監督でも同じだそうで、監督経験のある人は口を揃えて現代の難しさを語ります。メジャーリーグの監督なども同様でトーリロブロなども謙虚さとひたむき・誠実さで6年もかけてワールドシリーズに導いています。宮台真司みたいな喋り方をする人間を見るにつけ日本の国立大学法人のダメさ加減がよくわかると思います。日本で大学教員になるトレーニングを受けている人間には担任のような細やかな目配り気配り心配りは無理なんです。

 完全に今の令和の日本型学校教育に逆行していることは自覚しますが、額面通りではないヒネくれた活用の仕方をすればなんとかなる気もします。
 具体例としてはとにかくくだらない仕事は年寄りの子育て終了教員が受け付けること。これだけでも若手が担任業務にかけられる時間が増えます。
 そして同じく子どもや保護者に厳しくしておく役割を年寄り担任が引き取ることです。子どもが楽しく安心して毎日来るには厳しい部分がどうしても必要になります。それは保護者に対してもです。これを年寄り担任が一度やっておけばその後に若手が持ってもそれよりマシだという話になるからです。この2つは若手にも老人に対する畏敬として感じてほしいですね。それが風通しの良い組織というモンです。
 あとは管理職は人気取りのために行う業務には厳しい目を光らせる年寄りが必要です。文科省や教育委員会制度のポチである管理職の中には学校を確実に分断に導く取り組みを率先して進めていく愚か者がいます。自分のしていることが保護者に不公平感や不信感を抱かせていることに気づかないのです。その面の皮の厚さが定年を過ぎても管理職を続けていこうという厚かましさを生み出しているのでしょうけれどこれは教育に対する明確な背信行為の塊です。本体であるなら学校としての眼差しは勉強やスポーツができる子ではなく、そしてクレームや自分勝手にまみれる子どもとその保護者ではなく、一生懸命頑張っているひたむきな普通の子に注がれるべきです。
 そこにコミットしていく眼差しと働きかけが担任の中心的な業務に据えられるように学校の姿勢を明確にしていくことが学校管理職の仕事の中核のハズなんです。多分今この子どものセグメントに眼差しを注いでいる校長は日本に一人もいないはずです。これでは担任が報われるはずがありません。そこが問題です。
 なぜなら特定の子どもに目を向けて教職を分断するのは担任業務をしないで担任に仕事をおっかぶせる側の人間だからです。これが最後の年寄りにとっての戦いです。一番厄介です。というのはこういう位置につくのは優秀な若手の次の立ち位置である無意味で意味不明なミドルリーダーだったり、管理職なれない年寄りだったりすることが多いからです。
 実は学校を多忙化の渦に巻き込む人間というのは意欲と経験に満ち溢れた私の写し鏡のような人間だということを掴んだ時にはさすがに自己嫌悪に陥りました。そして仕方なくその感覚で学校組織マネジメントに臨むことをやめて方向転換していくことにしたわけです。
 読んでいてお気づきの方もおられるかもしれませんがこれまで挙げた具体例は実際にやっても嫌われるだけで評価されることが1ミリもありません。たびたびいうように私は高評価されることを捨てた人間です。それはnoteなどのSNSでも同様です。そうしなければ教育現場が良くならないことに気付いたということはそういうことです。学校組織マネジメント的にも実践的にも嫌われるように振る舞っていく必要があるということです。このことをはっきり言っている研究者や実践者というのは実はいません。大阪教育大のひどいのになると真逆のことを言っています。そんな生ぬるいことで頑張っている若手が救えようはずがありません。自分が育てた学生を潰すようなことを言う人間がいる大学などは本当に(ry
  ここと戦うことはなかなか骨が折れる作業です。見栄えの良い人間に素行不良にしか見えない人間が挑むのですからかなり部が悪い。しかし若手のための学校づくりと割り切っています。ただ若手の仕事を全部背負っていると少し崩していく道筋がないわけでもなさそうです。研究授業の事後研でも使って対決していくことを訴えてみようかなぐらいです。ダメならすぐ引っ込むしね。
 自分の考えを押し付けたり、押し通したりすること自体が結局多忙化を生み出して苦しむ人間を多くしていくことに想いを寄せられるような学校文化を作り出していきたいということです。ビジョンがないのは困りものですが、押し付けがましいことに異論を唱えられる一票を持つことを心理的安全性というのだということ自体を植え付けてみたいものです。

 簡単なことです。若手は好きなようにやったらよろしい。老人が責任を取ります。聞くな。自分で考えな。私はそれを無条件に承認します。それだけです。
 それでブラックじゃなくなります。教職の自己肯定とはそういうことです。

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