のーーと/FNo(o)te

ちょっと立ち寄るための思考に。

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マガジン

  • 【いち文で。】

    ハッとさせられる、考えさせられる、腑に落ちる、違和感を覚える。そんな"いち文"を集めてます。

最近の記事

後悔しない選択なんてきっとない。でも、だからこそ。

「後悔しない方を選んでね」「それでほんとに後悔しない?」「後悔しても遅いからね」  後悔しないようにと、言われたり聞いたり。相手は自分のことを考えてそう言ってくれているけれど、言われた方は緊張感が走る。 「あーー、どうやったら後悔しない人生を送ることができるんだろう。」と考えてしまう。「人生」という言葉はちょっと抽象的すぎるので、言い換えてみる。この場合は、選択に。 「どうやったら後悔しない選択をし続けることができるんだろう?」  そこで最初のアドバイス達がやってくる

    • 【いち文で。】自分の居場所を探すために、ここから逃げてもいいー『西の魔女が死んだ』よりー

       『西の魔女が死んだ』からのいち文です。一言でってわけではないですが、短い文章のこともここでは【いち文】としておきましょう。  さて、日本では我慢することが美徳とされているように思います。よく、石の上にも三年ということわざが引用されますよね。じっと我慢して花開く、そんなストーリーはアニメや映画、小説などに出てきます。また、人の心のなかにもそのストーリーを良いと思う価値観が入り込んでいるように思います。  もちろん、我慢していれば事態が好転するかもしれないし、時には我慢する

      • 【いち文で。】時間のケチケチと豊かさのケチケチー『モモ』よりー

         言わずと知れた名作の『モモ』に登場するいち文です。  時間をケチケチするとは、時間を節約するとか、効率的に何かをするとも言えそうです。私たちは日々、効率化の波に襲われているでしょう。新たなテクノロジーの開発や待ち時間の短縮などによって様々な時間を節約することができています。  それ自体は良いことで、不必要な時間や面倒な時間の短縮によって、その時間を別のことに充てることもできます。そうやって日々を豊かな時間で満たすことができれば、私たちはきっと幸せになれると思います。

        • 論理と連想

           論理であること、もしくはただの連想であることの違いはどこにあるのだろうか。  僕は先日、散歩をしていてコンビニの前で寝ているおじさんがいた。おじさんの横にはワンカップ大関というお酒が置いてあった。だから僕は、「このおじさんは酔っ払ってコンビニの前でねているんだな」と考えてその場を後にした。  しかし家に帰って、ふとあることが気になった。それは、僕はどうしておじさんが酔っ払って寝ていると確信したのだろうか?ということだ。  寝ているおじさんの隣にお酒があるから、そのおじ

        後悔しない選択なんてきっとない。でも、だからこそ。

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        • 【いち文で。】
          2本

        記事

          何者でもないという不安

           物質的には満たされている。ご飯も食べられるしお金もまあとりあえずはやっていける。スマホもあるし娯楽はそこそこ楽しめる。だけど、なんだか満たされない感覚がある。そうして、私の人生の意味とはなんだろう?と考えてしまう。  最後の問いまで行き着くかどうかは人それぞれだとしても、なんだか満たされないという感覚を抱いたことはあるだろうか。  なぜそう思ってしまうのか。それは、ひとえにこの固有の存在としての「私」の意味が感じられないからではないか。ご飯を食べたり映画を見たりという受

          何者でもないという不安

          ただ聴くこと、その力強さ

           僕は中学生だった時、学校に行けない時期があった。部活動での人間関係がうまくいかず、それによって学校に行けことそのものも嫌になってしまった。  学校に全く行かなかったのは何週間かだったと記憶しているが、その後は教室とは別のところに遅刻早退する形で学校に通い始めた。  その時、スクールカウンセラーの方にお世話になった。その方はとても優しく、僕がこれからどうしたいのかを丁寧に聞いてくださった。  ただ、僕はなんだか違和感を抱いていた。スクールカウンセラーの方はじっくり話を聞

          ただ聴くこと、その力強さ

          効率化のたどり着く先。

           現代では、スマホによって多くの人が簡単にマルチタスクをすることができるようになった。僕もその恩恵は受けていて、隙間時間にこうやってNoteを少しずつ書くこともできる。ただ、それは良いことばかりなのだろうか。  僕が電車に乗っていて衝撃的だったのは、ゲームをしながらアニメを見ている人がいたことだ。どっちに集中しているのか、というか集中できているのか、不思議で仕方なかった。  また、散歩をしているときに、自転車にのりながら授業動画?の視聴をしている人も見かけた。自転車のなが

          効率化のたどり着く先。

          言葉が響く。ーその不思議さについてー

           本を読んでいて、とある文章が心に響く。本でなくても好きなアーティストの名言やアニメでのワンフレーズ、映画でのセリフなどに心打たれた経験のある人は多いだろう。  それを観たとき聴いたとき、思考する間もなく言葉が響いてくる。ピンとくる、腑に落ちるなどの言い回しがあるが、要するに「分かる」ことの言い換えだろう。言葉を通して何かが直感的に分かる、その時の感覚を僕は想定している。  僕にとってそういう大切な言葉は色々ある。ただ、直感的に分かるについて今一度考えてみると、ちょっと不

          言葉が響く。ーその不思議さについてー

          体験、頭験、経験。

           実際に自分は経験していないにもかかわらず、知っている情報だけであれやこれやと口を出してしまった。そうやってしまってことはないだろうか?  僕には、いつかフランス料理店を開きたいと言っている友達がいる。フランス語は一単語も話せないし、料理もしているわけではないので、なぜそんなことを言い出したのか本当にわからない。  けれど、彼はどうやら本気らしく、今はどこかで下積みをしている。  彼がやりたいと言い出した時、周りの友達はやいのやいのとしていた。たしかに、彼はアルバイトで

          体験、頭験、経験。

          なぜ古典/難解な本を読むことに意味があるのか

           何かを学ぼうとすれば、ある程度、学問的な本を読むことがあるだろう。僕は哲学や思想などに関心があるので、そういった本を読むことが多い。  仮に哲学を例に挙げるとするならば、ただ解説本を読むだけでなく、古典にもチャレンジしなさい的なことを言われること、そういった発言の投稿を見ることがあるだろう。それで古典に挑戦してみると、たいていは一瞬で挫折する。ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントが書いた『純粋理性批判』は、その適切な例である。哲学に関心がある、ちょっと面白いと思う人が手

          なぜ古典/難解な本を読むことに意味があるのか

          考えるより動くことが大事な理由―AIとの比較によって―【エッセイ】

          入り口  ネットを開けば様々な情報を得ることができる。現代では当たり前の、このことがどのような影響を及ぼしているのだろうか。一つに、「実際に経験していないにも関わらず、それを理解したと勘違いしてしまう」ことが挙げられるのではないか。  それについての情報をたくさん得ることは、たしかに有益である。しかし、調べるだけでそれを理解したと言えるのだろうか。実際にやってみることの価値はなくてもいいのだろうか。  実際に動かずに何かを理解するものは、人間以外にその代表例を見ることが

          考えるより動くことが大事な理由―AIとの比較によって―【エッセイ】

          不安ってなんなんだろう?

          不安に囚われ、悩み、悲しみ、何も動くことができなくなってしまった。少なくない人がそのような経験をしたことがあるのではないか。そもそも、どうして人は不安になるのだろう。不安そのものがよくわからない存在だけれども、不安とうまく付き合っていくために、雑談として少し記したい。  僕が思うのは、不安は未来のことにしか抱かないという特性がある。過去や現在に不安はない。ここで、過去についてはわかるけど、現在について不安はある、と言われるかもしれない。しかし、現在に対して抱くそれは、不安で

          不安ってなんなんだろう?

          人生の重要な決断に迷ってしまう人へ―『西の魔女が死んだ』より―【エッセイ】

          入り口  生きていると、時に自分にとって大きな決断をしなければいけない時が来る。どの学校に進もうか・進まないか、どの企業に就職しようか、退職しようかなど、である。そういった決断をするとき、人はしばらく悩み考え、不安になることを経験するだろう。どのような選択をしても、その先が見えないため、自分の決断に自信が持てないのだ。後から振り返ってみれば、「あの時、こっちをえらんでよかったな」と思うことはあるけれど、それでもやっぱり悩んでしまうのが人間であろう。  なにを選ぼうとしても

          人生の重要な決断に迷ってしまう人へ―『西の魔女が死んだ』より―【エッセイ】

          『〈私〉を取り戻す哲学』―現象学の強み―

          岩内章太郎著、講談社現代新書(2023年)から出版。 要約(本書の問いの設定) 本書の表紙に書かれている「なぜスマホを見続けてしまうのか」という問いに対する答えは、「人は退屈しているから」である。 人類の発展は衣食住の安定の代わりに、己の欲望の矛先を失ってしまった。刺激がなく手持ち無沙汰になっている。それは、宮台真司のいう「終わらない日常」と同じである。 人は退屈なままではいられないので、スマホに手を伸ばす。ただ、そこに目的や意味はなく、だらだらと情報を摂取しているだ

          『〈私〉を取り戻す哲学』―現象学の強み―

          労働、仕事、現代

          アーレントは『人間の条件』で、人間の行為を労働(labour)、仕事(work)、活動(action)の3つに分けた。 労働とは、簡単に消費されてしまうものを作る行為である。アーレント自身、私がオムレツを作ることは労働で、タイプライターを打つことは仕事であると述べていたらしい。 仕事とは、耐久性のある物を創造することである。それはアーレントにとって、タイプライターで作成したものを本にまとめ、世に出すことである。 アーレントは、古代ギリシア時代には労働よりも仕事のほうに価

          労働、仕事、現代

          消費と生の関係

          人は消費することで生きている。消費とは何かを定義することは難しいが、とにかく人は消費をしている。モノ・コト・トキ・ヒトなど、さまざまな形がある。消費は、もちろんそれによって快楽を得ることができるが、どこか虚しさも感じる。それを続けることは、私の人生が消費されるという事態を招く。 私はチェーンの飲食店でバイトをしている。そこでは、私がマニュアルに沿う駒として、一個の機械の代わりを担う消費物として動いている。労働の場を離れても、大衆に開かれたモノを持ち、食べ、生きている。 な