私という他者

 ハンナ・アーレントというドイツの哲学者がいる。彼女は、「思考とは一体何か?」という問いに対して、「私が私自身という他者性と対話することである」と述べた。

 僕はアーレントの言っていることが分かるようで分からなかった。思考はたしかに対話っぽいような気がする。けど、私の中に他者性があるとは一体どういうことなのだろうか。その疑問は、その後のアーレントの文章を追っても解決しなかった。

 ただ最近、ふと「あ、分かったような気がする」と急に思い立った。そこで僕が分かったのはアーレントのいう思考のみならず、一般に「私」という存在に向き合う時のものだ。「私という他者」との関係。なんなとなくそれが分かったような気がする。それをもう少し書いてみようと思う。

 例えば、言葉について考えてみよう。落ち込んでいる他者に「大丈夫」と声をかける人がいると想定する。その人は、自分が落ち込んでいる時に自分に声をかけるとするなら、きっと「大丈夫」という言葉を使うはずだ。

 「大丈夫」という言葉でなかったとしても、「平気?」とか、「なんでも頼ってね」といった言葉を使うだろう。他者に対しても自分に対しても。とりあえず言いたいのは、慰める言葉が相手と自分で全く異なる、言い換えると自分専用の言葉があるわけではないということだ。相手に対しては「大丈夫」と言いながら、自分には「ちひんくすみほ」など意味不明な言葉を使うなんて事はおそらくない。

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※補足的に。ここでは簡略的に、自分専用の言葉=意味不明な言葉としているが、もう少し深く考えることもできるはず。たしかに、「ちひんくすみほ」は意味不明である。ただ、この言葉が「日本語という言語を使っていること」と「ち、ひ、ん、く、す、み、ほ」から成り立っているのだと理解できる。つまり、「ちひんくすみほ」という文字列は意味不明だけど、その要素は理解できるということだ。そして、要素的に理解ができるということを他者と共有する事は可能なので、「ちひんくすみほ」は完全に自分専用の言葉ではない。なので、ほんとうの意味での自分専用の言葉とは、もはや言葉とは呼べない何かである。ただ、それを作り出すのは不可能であろう。

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 さて、言葉は自分にも他者にも同じように適用されるのだった。それはつまり、自分に対して使う言葉もまるで他者に使うかのようにしなければならないということを意味する。これが、私が他者であることの理由だ。アーレントはこのような事態を指して、「私自身という他者性」と述べたのだろう。語るためには語る人と語られる人がいなければならない。それが私と私自身なのである。

 ただし、私という他者は言葉においてもしくは思考においてのみ実現されるものではない。行為や振る舞いにおいても同様だ。私というのはこの三次元の空間に他者と共にいる。だから、私に対してするなにかの行為(例えば手で肩をたたくなど)は相手にも同じようにできる(相手の肩を手でたたくこと)。というか、そうしなければならない。自分専用の行為なんてものはないのだから。

 自分に対する言葉や行為はまるで他者にするかのようにしなければならない。それが私という他者の存在である。

 では他者でない私はいないのかというと、そうではない。例えば、私は今暑さを感じている。お天気アプリをみると今は32.5℃なので、私は32.5℃の暑さを感じていることになる。ただ、この32.5℃を「どのように感じているか」ということを相手に伝えるのは不可能だ。仮にお天気アプリが体感温度を示したとしても同じだ。その体感温度をどのように体感しているかを相手に伝える事は絶対的に不可能である。

 ただ、この暑いと感じていることを「めっちゃ暑い」という言葉で表現すると、他者と理解可能になる。ということは、私が何かを感じている間は私は他者になっていないが、これを言葉や行動にしてしまった瞬間に私という他者が現れてくる。

 他者でない私は「感じている私」で、他者としての私は「現れる私」である。そのように、おそらく「私」との接し方は二通りあるのだろう。

 

 

 


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