ただ聴くこと、その力強さ

 僕は中学生だった時、学校に行けない時期があった。部活動での人間関係がうまくいかず、それによって学校に行けことそのものも嫌になってしまった。

 学校に全く行かなかったのは何週間かだったと記憶しているが、その後は教室とは別のところに遅刻早退する形で学校に通い始めた。

 その時、スクールカウンセラーの方にお世話になった。その方はとても優しく、僕がこれからどうしたいのかを丁寧に聞いてくださった。

 ただ、僕はなんだか違和感を抱いていた。スクールカウンセラーの方はじっくり話を聞いてくれているにもかかわらず、なぜか心を託すことができなかった。

 長年の疑問でいたが、今ならその端っこを掴めるような気がしている。

 端的に言えば、スクールカウンセラーの方が質問し、僕がそれに回答するという問答の形式がその時の僕にはまだ早かったのだ。

 僕の中では、学校に行けないという事実のみがあった。けれど、その悩みを自分のなかで消化しきれていなかったし、これからどうしたいかなんて全く考えていなかった。ただ、人は質問されるとそれについて回答しようとしてしまうものだ。しかし僕はまだ中学生で、自分の意志なんてものは無かったし気づいてもいなかったから、どうにかその場をやり過ごせそうな答えを探してしゃべってしまった。

 悩みについて質問されて、それに答える。進む道を見つけたい人には問答形式が最も適切だ。しかし僕が中学生の時、僕はその手前の段階にいた。悩みを悩みとして受け止め、解釈できない時間を過ごすという前段階。それは、感情の底に触れるまで待つ作業である。

 そんな時に問いを投げかけられても、真っ当な答えは出てこない。問いよりも前に、まだ自分自身との対話が必要だったのだ。

 スクールカウンセラーのやり方などは全くわからないが、おそらく僕が学校の別室は来ることができる=ある程度回復している、のような認識であったのだろう。スクールカウンセラーの方の対応は適切であった。だから、あの人のやり方は間違っていたとか、そういう類のことを言いたいのではない。

 しかし、仮に僕には自分自身との対話が必要であったとしても、独りでそれを行うことはできなかっただろう。家でも現実逃避をするようにゲームばかりしていたし、別室にいてもただ授業プリントを解くだけでその他のことは何もしていなかったからだ。

 自分自身との対話は思ったより難しい。やろうとしても身近なものに意識が散漫になったり、一人の寂しさに耐えられなかったりするからだ。

 ただ僕は、自分との対話は必ずしも一人で行う必要はないと考えている。他者の力を借りながら自己対話は可能だと思う。その時に他者に必要なことは、「ただ聴くだけ」の姿勢であるかもしれない。僕はこのNoteを通して中学生だったあの時の、あり得たかもしれない可能性を考えている。

 さて、ただ聴く姿勢とはどのようなものであるか。そのヒントはミヒャエル・エンデの著作である『モモ』にある。

 モモは主人公の女の子である。内容は省くが、悩みがある人や喧嘩している人がモモに話を聞いてもらうと、なぜかみんな良い解決策を思いついて帰るのだ。それからはみんな、何かあるとすぐに「モモのところに行ってごらん!」と言ってモモを頼りにしていた。

 モモは人の話を聴くのに、何か特別な力があったりコツを知っていたりしたのだろうか。そうではない。モモは「ただ聴く」こと、それを徹底していただけなのだ。

小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。

『モモ』、22頁。

 ただ聴くこと、それにはどんな効用があるのだろうか。

 僕は、ただ聴くことは他者を介した自己対話であると思う。自己対話の成立に寄与する形として、「ただ聴く」はある。

 悩みというのは、それについて考えるだけでなく、何かしらの方法で吐き出さなければならない。そうでないと悩みと距離を取ることができず次のステップに移行できない。

 悩みを吐き出す方法の一つとして、一人で行う自己対話はある。僕が僕自身と対話することで、悩みを少しずつ吐き出すことができる。そうしてある形になった悩みを見ることで、その悩みに対してどのようなアプローチを取ろうかと考えることができる。

 ただ聴くとは、他者がその人との対話相手になるということだ。問答形式ではない「聴く」という行為をし続けることで、話している人は徐々に悩みが明確になっていく。そして、話し手は一人でくよくよしているだけでは思いつかなかったことを閃くのだ。それが『モモ』で起きた出来事である。それはフィクションだけの話ではなく、現実も同じだ。ただ聴くだけの他者は、話し手にとって話し手自身となり、悩みの解決へと導いてくれる。

 スクールカウンセラーの方も、ただ聴くをやってもらえたらよかったなと思うこともある。しかしそんなのはタラレバであり、仮にそうだったとしても、事態がより良い方向に行ったとは限らない。だから、あの時そうしてくれたらではなく、僕が悩みを聴く側になった時には「ただ聴く」ができるようになりたい。

 しかしそれを実際にやろうとするとなかなか難しい。「それってこういうことなんじゃない?」とか、「こうしたら良いと思う」などと言いたくなってしまうからだ。そこをぐっと堪えて相手の自己対話にこちらも身を任せること、そして自然に何かが湧き上がってくるまで待つこと、それらは誰にでもできることではない。

ただ聴くことと、一人で自己対話すること、両者の成熟度には相関関係があるはずだ。

 

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