考えるより動くことが大事な理由―AIとの比較によって―【エッセイ】

入り口

 ネットを開けば様々な情報を得ることができる。現代では当たり前の、このことがどのような影響を及ぼしているのだろうか。一つに、「実際に経験していないにも関わらず、それを理解したと勘違いしてしまう」ことが挙げられるのではないか。

 それについての情報をたくさん得ることは、たしかに有益である。しかし、調べるだけでそれを理解したと言えるのだろうか。実際にやってみることの価値はなくてもいいのだろうか。

 実際に動かずに何かを理解するものは、人間以外にその代表例を見ることができる。そう、AIである。AIは情報のみでそれを理解する。人は経験するからこそAIと分けられる。人間とAIの差はまさに経験の差にある。

 しかし近年、人は情報だけでそれを理解したと思ってしまう。そうすると、人間とAIの差はほとんどないどころか、人間はAIの劣化版になるだろう。AIの方が圧倒的な知能を持っているからだ。だから、経験することは「人間にとって」とても重要な意味をもつ。

 序盤で言いたいことはほとんど終わってしまった。ただ、ここからもう少し踏み込んで話を進めたい。AIと人間の比較から、なぜ情報のみで理解するするのはだめなのかを考えてみたい。

 しかしこのNoteで扱うのは、言葉の問題である。一見関係なさそうだが、経験を「知った気になる」のではなく「理解する」と捉えたとき、言葉との関係が近くなる。言葉はただ見て覚えるのではなく、身体的な感覚をともなってはじめて理解される。それを扱ったのが『言葉の本質』という本である。本書を手掛かりに考えていく。

AI:記号接地問題

 『言語の本質』という本がある。この本は、オノマトペを赤ちゃんの言語習得の始まりとして、それがどのように複雑な言語体系の習得に貢献しているか?を扱った本である。オノマトペはその音が対象の一部をそのまま反映させた言葉であり、赤ちゃんはまずそういった対象と近い言葉を覚えていく。人の言葉の習得と対比的に、AIの言語習得についても述べられる。

 その中で、AIの「記号接地問題」というのがある。これは、AIは本当に言葉を理解しているのか?という問いから生まれたものである。

 少し考えてみよう。あなたは新たな外国語(仮に中国語)を学ぼうとしている。その時に、中国語を中国語で説明している辞書しか持っていなければ、永遠に中国語を理解することはできないだろう。知らない文字を見続けても、それが何であるかを理解することは絶対にできない。

 中国語を理解したければ、一度それを母国語に変換する必要がある。母国語であれば、その言葉が何であるか?を文字と感覚(経験)のセットで理解している。(例えば、イチゴを理解するとは「赤い」「甘酸っぱい」などといった文字と、食べたときの”あの感覚”を伴っていることが必要である。”あの感覚”がなければ、「赤くて甘酸っぱい」食べ物はすべてイチゴになってしまう。)それはつまり、新たなものを学ぶときは、そのセットを基にする必要があるということだ。人が言葉を理解しているとは、その文字が感覚(経験)に接地していることを指す。

 しかし、AIにはそのセットが無い。全ての言葉を文字のみで学んでいく。つまり、接地がない。そのため、AIは本当に言葉を理解しているのか?という問いが出てきたのだ。その問題は未だに解決していないらしい。

 ただ、今のところ、AIは言葉を真に理解してるとは言い難いだろう。AIは理解しているから意味の伝わる文章を返すのではなく、あくまで確率予想によって言葉を発しているだけだからだ。(例えば、梅干しは○○○、という文章を想定しよう。○○○に酸っぱいと入るとき、AIは”あの酸っぱさ”を理解しているのではない。ただ、みんなが梅干しは酸っぱいとよく言っているから、「まあ酸っぱいが入るんだろうな」と思って出力しているにすぎない。)

 本の中では、ChatGPTに日本語を英訳させた文章を載せている。一か所だけ誤りがあると指摘されているが、その誤りはまさにAIが確立によって言葉を発していることを示しているだろう。

 少々長くなってしまったが、AIは記号接地をしていないため、本当にその言葉を理解しているとは言い難い。逆に人間は、「イチゴ」を文字と感覚のセットで理解しているので、記号接地していると言える。しかし、言葉というのはもっと複雑で抽象的なものもたくさんある。人間は抽象的な言葉をどのように習得していくのだろうか。

人間:アブダクション推論

 人間はとても複雑な言語体系を習得している。抽象的な言葉も上手く使うことができる。なぜそれは可能なのだろうか。

 さきに、人間は言葉に対して記号接地していると述べた。しかし、抽象的な概念(例えば、「愛」「学問」などなど)に記号接地しているとは言いずらい。では、人はどのようにそういった言葉を学んでいくのだろうか。

 本書ではアブダクション推論と呼ばれるものがそれを解決すると述べられている。これは、人が言葉を飛躍させて使っていくことである。それによって人は間違いを犯しながら修正し、言語を覚えていく。

 幼少期、言葉を間違えて使った記憶はないだろうか。僕はあまり覚えていないが、本書では動詞の誤用の事例が載せられている。例えば、湯船に入ることも出ることも、畳の部屋に入ることも、すべて「入る」と言ってしまう子供がいるそうだ。これは、「またいで入る」ことを「入る」と勘違いしてしまうことから起きるらしい。

 「入る」の用法としては誤りだが、人間はこのように言葉を飛躍させて徐々に言語を覚えていく。その、言葉を飛躍させて使うことがアブダクション推論である。

 アブダクション推論によって、人は直接記号接地している言葉だけでなく、さらに多くの言葉を理解していく。抽象的な概念の理解は、元々は記号接地している言葉からの、アブダクション推論による結果である。人間は、少しの記号接地している言葉があれば、それを基に様々な難しい言葉を学んでいくことができるのだ。

 さて、ここまででAIと人間の言葉の理解について述べてきた。AIは言葉の記号接地せずにあらゆるものを学んでいく。しかしそれは、本当に理解しているのではなく、あくまで確率によって言葉を出力しているだけであった。対して人間は、はじめは記号接地している言葉を学んでいく。そこから、アブダクション推論によって抽象的な概念も理解できるようになっていく。

 僕がずっと言葉の話をしてきたのは、これを「体験」に応用できると考えたからだ。タイトルと入り口の問いであった、なぜ考えることより動くことが大事なのか、を考察することは、言葉をどのように理解しているかと密接な関係にある。最後に、言葉から経験へ、について考えていこう。

AIのように体験を理解してしまう人間

 入り口のところまで戻ってくるが、現代では情報があふれている。つきたい職業の年収はすぐ出るし、何かを達成するために必要な労力や才能、適正年齢など、様々な統計を見ることもできる。それは、良いところもある反面、何かをやってもいないのに挫折する、文句をつける、理解した気になる、などなどの弊害を引き起こす。

 これは何かに似ていないだろうか。そう、これまで見てきた、AIの記号接地問題と同じである。人はそれを体験していないにもかかわらず、まるでそれの全てを知っているのかのように判決を下すことができる。

 「言葉」、ではなく「体験」を相手にしたとき、人はAI化しがちである。情報を集めただけでそれを理解した気になる。ネットのクソリプや意味のない批判が起こるのも情報のみで経験した気になっていることに一つの原因があるだろう。AIが言葉を知っているだけでそれを理解はしていないこと、それを本書では記号から記号へのメリーゴーランドと例えている。

「〇〇」を「甘酸っぱい「おいしい」という別の記号(ことば)と結びつけたら、AIは〇〇を「知った」と言えるのだろうか?
 この問題を最初に提唱した認知科学者スティーブン・ハルナッドは、この状態を「記号から記号へのメリーゴーランド」と言った。(・・・)
 ことばの意味を本当に理解するためには、まるごとの対象について身体的な経験を持たなければならない。

『言語の本質』、ⅲ頁

 人は言葉でなく経験を相手にしたとき、情報から情報へのメリーゴーランドに乗りがちだ。経験を理解するために、考えるよりも動かなければならない。そうして新たな知見を得ること、それがもたらす豊かさについては、言うまでもないだろう。



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