なぜ古典/難解な本を読むことに意味があるのか
何かを学ぼうとすれば、ある程度、学問的な本を読むことがあるだろう。僕は哲学や思想などに関心があるので、そういった本を読むことが多い。
仮に哲学を例に挙げるとするならば、ただ解説本を読むだけでなく、古典にもチャレンジしなさい的なことを言われること、そういった発言の投稿を見ることがあるだろう。それで古典に挑戦してみると、たいていは一瞬で挫折する。ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントが書いた『純粋理性批判』は、その適切な例である。哲学に関心がある、ちょっと面白いと思う人が手を出してみると、おそらく一ページも理解できないどころか、一段落も理解できないだろう。
深い読書挫折体験をしてしまうと、古典に再挑戦する勇気はほどんど消え失せて、解説本に頼ることになるだろう。たしかに、世の中には優秀な解説本はいくらでもあるし、NoteやYoutubeなど本以外の媒体でも、無料でいくらでも解説を探すことができる。
しかしそれでも、古典に挑戦する価値はあると思う。その理由は、本を読むとはただそれを眺める、理解するだけでなく、「私はこれをこれこれこういうような物語として受け取った」という意味付けをすることであるからだ。
ちょっとだけ遠回りをして考えてみよう。例えば、小説や自己啓発本の要約を提供しているサービスや、映画の要約を流すファスト映画。これだけを見て、その対象について分かったぞと満足できるだろうか。
もちろん、ちょっと覗いてみたかっただけなど、関心が薄い場合には十分であろう。けれど、その要約がどのようなものであったか思い出せるだろうか。また、その要約はかなり表面的なものではないだろうか。これは要約というものの特性上、仕方のないことである。
要約を見た後、実際にその対象を見てみる。すぐに気づくことは、要約に載せられていない部分がかなりあるということだ。そして、実際にそれを観て感想を抱くところ、違和感を持つところ、感動するところは要約に載っているだろうか。おそらく、否であろう。
さて、以上のことから分かるのは、一次情報に触れるのは「その人の関心を引き出すのは、要約では不可能だから」という点にある。そしてその関心を引き出し、対象と触れることでその人に蓄積されていくものたちが、意味づけを成すのである。
古典の話に戻ろう。古典も同じように、解説を見るだけでは意味づけをすることができない。それはつまり、その人の血肉になって残らないことを意味する。物語としての意味づけをするのであれば、やっぱり一次情報を自分で見なければならない。
ただ、ややこしいことに、古典や難解な本にはたいてい長い論理がある。それを取ることができなければ、意味づけもただただ乱暴な解釈に過ぎない。論理を把握するために、解説するコンテンツは存在している。そう、解説とは論理の解説であって、それも一種の要約なのだ。難解本以外の本や映画の要約における、全体の流れを説明する役割のように。
しかしながら、解説という言葉の中には、何か「正しい唯一の答え」のような意味が含まれているように感じてしまう。その思い込みが、解説本に頼りすぎること、そして古典を読まない理由の一つになってしまっているのではないか。
古典以外の本を取ってみても、多くの物は古典を下敷きにしている。つまり、本や映画にそれぞれの感想を抱くように、古典にそれぞれの感想を抱いたものが様々な本となって出版されている。とすると、古典への道は常に続いている。
解説本が一つの要約に過ぎないと理解するとき、これまでとは異なる可能性が芽生えている。そう、新たな読書体験に開かれていく可能性である。
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