何者でもないという不安

 物質的には満たされている。ご飯も食べられるしお金もまあとりあえずはやっていける。スマホもあるし娯楽はそこそこ楽しめる。だけど、なんだか満たされない感覚がある。そうして、私の人生の意味とはなんだろう?と考えてしまう。

 最後の問いまで行き着くかどうかは人それぞれだとしても、なんだか満たされないという感覚を抱いたことはあるだろうか。

 なぜそう思ってしまうのか。それは、ひとえにこの固有の存在としての「私」の意味が感じられないからではないか。ご飯を食べたり映画を見たりという受動的な行為である消費に、私の固有性を見出すことができない。またあるいは、労働においても「私」の意義が感じられない。その積み重ねによって、満たされているけれど不安な状態があるのではないだろうか。

 それは、何者でもないという不安と言い換えられるだろう。

 私が何者であるかどうか、自信をもって言うことができない。そんな不安があるのではないか。

 ふとした時に抱くその不安について、そのまま考え続ける人は多くいないだろう。大抵の人は自分の生活を送るのにいっぱいいっぱいだからだ。ただ、その不安を放置していても解消することはないだろう。時間は解決してくれないのだ。

 もし、この不安の解決方法として何者かになることを選ぶのであれば、道は創作にあると思う。

 受動的な態度ではなく、積極的に動き何かを作る。そうした創作活動を通して、「私」の固有の意味は生じてくるのだろう。

 創作には様々なものがある。それは、Noteで何かを書くことかもしれない。それはDIYをすることかもしれない。それは絵を描くことかもしれない。

 例を挙げればきりがないほど、この世には創作の場が与えられているはずだ。そのなかで自分に合ったものを選べば良い。

 ただ僕は創作だけでなく、何かを育むことも「私」の意味を生み出すと思う。植物を育てることや、運動して自分の体を育むこと。そうした、過程に注目して何かをやることも、何者でもないという不安を取り払うのではないか。

 しかし、僕にはまだ過程に注目することがいかなる意味を持つのかわかっていない。結果ではなく、過程。

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