体験、頭験、経験。


 実際に自分は経験していないにもかかわらず、知っている情報だけであれやこれやと口を出してしまった。そうやってしまってことはないだろうか?

 僕には、いつかフランス料理店を開きたいと言っている友達がいる。フランス語は一単語も話せないし、料理もしているわけではないので、なぜそんなことを言い出したのか本当にわからない。

 けれど、彼はどうやら本気らしく、今はどこかで下積みをしている。

 彼がやりたいと言い出した時、周りの友達はやいのやいのとしていた。たしかに、彼はアルバイトでの遅刻も多いし、マイペースに生きている感じなので、過酷な場所に突っ込んでいくのは無理だろうと、周りは思ったのだ。

 しかし、彼にかけられる言葉はアドバイスではなく、「無理だろ」であった。周りの誰一人として料理店で下積みしたことはないし、似たような経験もない。にもかかわらず、確定事項のように「無理だろ」と言っていた。まあそれは、彼がいじられキャラだという理由もあっただろうが(ちなみに僕は、別にどっちでも良いと思っていたので応援も批判もしなかった)。

 さて、ここから本題に移ろう。周りの人はなぜ似たような経験がないにもかかわらず、無理だろうと言ったのか。ここには、情報と頭だけの知識である事を知った気になってしまう現代情報社会の問題点が反映されているだろう。情報にかなりの価値がある(ように見える)ために、それだけで「知ったか」してしまうのであろう。

 ここでは、情報と頭を使って知ることを「頭験」と呼ぼう。

対して、実際に体を使ってやってみることを「体験」としよう。

 それらが融合して一つの塊となること、それは「経験」になる。

 頭験は悪いものではない。使い方次第である。ただ、やったことない、言い換えれば体験したことなしにあれこれ決めつけることには十分注意をしなければならない。

 体験と経験はごちゃまぜに使われてる言葉のように思える。しかし、これらは分けた方がいいだろう。体験とは何かをやっているその時のことであり、経験は後から意味付けする一つの塊である。

 そのため、体験それだけでは他の可能性に開かれていかない。体験した後に頭験すること、それによって一つの経験ができあがること、そのプロセスを経ることによって他者へのアドバイスや、自分の人生が実りあるものとなっていくだろう。

 経験を積むこと、それは経験値となって蓄積されていく。

 ただ、経験はそこから溢れ落ちる大量の体験と頭験に支えられていることも忘れてはならないだろう。

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