効率化のたどり着く先。

 現代では、スマホによって多くの人が簡単にマルチタスクをすることができるようになった。僕もその恩恵は受けていて、隙間時間にこうやってNoteを少しずつ書くこともできる。ただ、それは良いことばかりなのだろうか。

 僕が電車に乗っていて衝撃的だったのは、ゲームをしながらアニメを見ている人がいたことだ。どっちに集中しているのか、というか集中できているのか、不思議で仕方なかった。

 また、散歩をしているときに、自転車にのりながら授業動画?の視聴をしている人も見かけた。自転車のながらスマホはせいぜいLINEを返したりする程度だと思っていたが、動画を見ることもあるのかと驚いた。ただ、それでは当然自転車の運転に集中することはできないはずで、案の定その人は蛇行運転をしていてとても危険だった。

 マルチタスクは効率化をもたらした。無駄を省いてあらゆることがスマホでできる。ただ、だからこそ一つのことに集中することができなくなった。そんな感覚を多くの人が持っていることだろう。

 一つのことに集中できなくなれば、何かを味わって堪能することも難しくなる。次々に新たなものを求め、消費していく。季節ごとに大量の服を買う、美術館では流れるように作品を見る、食事もそそくさと終わらせるなど、何かしらのコンテンツをあっという間に消費した経験はあるだろう。

 マルチタスクや効率化によって新たに生まれたもの、それは消費である。そして今や、スマホの登場によってかなりの時間を消費に充てている人は多いのではないか。

 消費の増大は何をもたらすだろうか。僕は、消費の主体と客体の転換にあると思っている。消費する主体は当然、人間である。人間が主体となり、モノやコトを消費する。

 ただ、消費が多くなると、今度は人間の方が消費されるようになる。

 ドイツの哲学者であるハンナ・アーレントは『人間の条件』で、人間は条件付けられる存在であると述べた。なるほど、確かに僕を構成するものは僕が食べたものや着ているもの、持ち物などの総称である。そういった意味で、僕という人間は周りのモノたちによって規定、つまり条件付けられている。

 さて、これを消費へと応用してみよう。あらゆるコンテンツを消費する生活を送っている場合、その人は消費する主体ではなく客体になっているだろう。スマホでコンテンツを早送りで見て、ご飯は外食や出来合いのものを早く食べ、友達といる時やお風呂の時間もスマホを使ったり別の作業をしたりする。

 こういった消費にまみれた生活においては、「私」が消費しているという意識の裏で、私が消費に規定されてしまっている(正確には、私の生活が、であろう)。

 私が消費に規定されている、あるいは条件付けられているとは、私が私の人生を送っていないことを意味する。

 では、誰が私の生活の中心なのだろうか。

 答えは、消費である。

 いやいや、そんなのは言葉遊びの一環だと、鼻で笑っていられるだろうか。自分の生活を一度振り返ってみたとき、何が映るだろうか。

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