言葉が響く。ーその不思議さについてー
本を読んでいて、とある文章が心に響く。本でなくても好きなアーティストの名言やアニメでのワンフレーズ、映画でのセリフなどに心打たれた経験のある人は多いだろう。
それを観たとき聴いたとき、思考する間もなく言葉が響いてくる。ピンとくる、腑に落ちるなどの言い回しがあるが、要するに「分かる」ことの言い換えだろう。言葉を通して何かが直感的に分かる、その時の感覚を僕は想定している。
僕にとってそういう大切な言葉は色々ある。ただ、直感的に分かるについて今一度考えてみると、ちょっと不思議な体験をしていることに気づく。
なぜ、直感的に分かるなんてことができるのだろうか。
言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュールは、言語は差異の体系であると言った。これは、一つの言葉の意味はその対象のみで決まるのではなく、他の言葉との違いその言葉の意味規定に必要であるということだ。
例えば、黄色はイチョウやレモンといったあの色を指すが、それだけでは黄色の範囲は定まらない。緑色や青色といった他の色と黄色が区別できるからこそ、黄色と呼べる範囲が確定される。
さて、今は言葉が差異から成り立っていることを述べた。僕がソシュールを持ち出したのは、「分かる」も同様に差異によって規定されるのではないか?と思うからだ。
「分かる」は「分からない」に取り囲まれている。学校のテストのように一つの答えがあるとするならば、それ以外は不正解である。1+1=2と分かるには、1+1=3や=4など2以外が不正解であると知っていなければならない。「分かる」も黄色と同じように、「分かる」ためにはその他のものが「分からない」と知っていなければならないだろう。
しかし、冒頭に戻ると以上のことは通用しない。言葉が響く、すなわち「直感的に分かる」ことは「分かる」の一点突破であるからだ。大量の「分からない」を想定しているわけではない。
にもかかわらず、直感的に分かることは起きている。それがとても不思議なのである。直感的とはいわば、その「分からない」のプロセスを捨象した上での「分かる」に付随するであろう。しかしながら、なぜそんなことは可能なのだろうか。
僕にはまだその理由がわからない。ただ、分かるとは頭で理解することではなく、身体感覚をともなっているのだろうなとは思う。
自転車に乗れるようになる、逆上がりができるようになる、車の運転ができるようになるなどの身体感覚の延長と同じ地点に「直感的に分かる」はあるかもしれない。
腑に落ちるとは、そういうことではないか。
しかし、僕は腑に落ちるの「腑」を身体感覚として持っていないので、今のところ、腹に落ちると解釈している。言葉が腹に落ちるかどうか、それが僕にとっての「直感的に分かる」である。
言葉が腹に落ちること、響くこと。
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