海野

書きたいことは思ついたうちに。

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最近の記事

「優しさ」=「干渉しない」日本人

バイトを探していても、仕事を探していても、「アットホーム」の売り文句は多い。 日本人は異常に人間関係に敏感で、給料の高い低いなんかよりもよっぽど人間関係が大きなポイントだからだ。 「優しい人ばかりで、アットホームな社風(雰囲気)」 そんな場で上司から怒られたなら、それは「優しくない」。 怒られる(強い語気の発言を受けること、とも言い換えられるだろうか)ことを過度に嫌う若者の面白い傾向だと思うのだが、指導するという意味での「優しさ」さえ、最近は皆無な印象を受ける。 加えて上

    • 【小説】CASE4:モリタココロ

      ココロは、生まれて間もないころハタ家にきた。 きれいなおうちにふわふわのベッド、それから決まった日にだけワタルがつくる、お肉がたくさん入ったごはんが大好きだった。 あるときキョウカがいなくなって、ワタルからもいつものごはんをもらうようになった。 もうあのおいしいごはんはもらえないのかなと少しさびしがっているうちに、キョウカと、自分と同じくらいの大きさの子どもが家にきた。それがケントだった。 その日はいつもよりもお肉の入ったごはんで、とびきりおいしかったのを覚えている。 ケ

      • 嫌いと苦手、どっちがひどい?

        人に不快感を与えることはいけないことだというのに、その表現は世界に溢れている。 なぜだろうと考えて、それは人を喜ばせる言葉の裏側としてどうしても存在するものだからかと思った。 人から言われて嫌だったことを思い出してみる。言われて嫌だなと思うことを考えてみる。 そこでふと思ったのは、嫌いといわれること、苦手といわれること、どっちの方がよりダメージが大きいのかということだった。 大抵の場合、人には嫌い・物には苦手なんて使うことが多い。 でも食べ物の好き嫌いなんて言ったりする。

        • 言葉という限界と、感情的であること

          「言葉にしてしまったら終わり」という言葉も含めて、言語はある意味感情の最高地点だ。 最高地点とはいわば限界。ここが一番上だと決めてしまったら、人はその上にある新種の生物・新たな秘境に気付かない。コロンブスがアメリカ大陸をアジアだと決めつけてしまった時のように、それは往々にして起こることだと思う。 そう思うとナスカの地上絵といい、飛行技術の発達で「上から客観的に眺める」が可能になってしまったことは、限界の勘違いをなくすことだとしても少しロマンには欠ける。気がする。 といって

        「優しさ」=「干渉しない」日本人

          人が人を見ること

          満員電車で死んだような顔をしている大勢を、ずっと見習ってきた。 学生時代は校門から駅のホームまで周りも気にせずべらべらと話していたが、一度電車に乗ればその静けさに黙らざるを得ない。 いわゆる無言の圧力、というやつであろう。 昼間ののどかな車内で幼いながらにふるまえば、それは「可愛い」といわれ時に落ち着いた紳士淑女に褒められたりもする。 それが朝晩は、同じ電車だというのに一変する。 咳払いの1つさえも許されない空気。 イヤホンをつけ、目線を下に向け、隣によりかからず寝たふりを

          人が人を見ること

          【小説】CASE3:モリタキョウカ

          キョウカはワタルを愛していた。 20年前に撮った挙式での写真は、今もお気に入りのフレームに入ってリビングに立てかけられている。窓の外で夕日が沈むのを見ながらそのフレームを指でなぞるのが彼女のくせだった。 すべてが変わったのは、ケントが生まれてからだ。 慣れない育児は、多くの女性が今までもそうであったようにキョウカを苦しめた。ケントが特別世話の焼ける赤ん坊だったわけではない。とはいえ当人のことは当人にしか分からない。今までの生活が一変することは、彼女にとってひどく苦痛だった

          【小説】CASE3:モリタキョウカ

          【小説】CASE2:ハタケント

          ケントは、まじめな少年だった。 物心ついたときに、彼のそばに母親はもういなかった。幼稚園、小学校を思い返せばただ鮮明に浮かび上がるのは忙しそうな自分の父親の顔。自分に向けられる父の顔はいつも笑顔だったけれど、布団から毎日こっそりと見ていたその顔の方が、ケントの記憶には強く残っていた。 ケントは、いつしか父の笑顔が怖いと感じるようになっていた。 中学生のころ友人の家に行ったとき、友人の父親は笑顔など見せなかった。笑っていたのはむしろ母親の方だ。ケントが来たことに笑い、父親の

          【小説】CASE2:ハタケント

          賞賛の言葉

          賞賛の言葉ほど個性に溢れ、美しいものはない。 かくいう自分は、小さいころから褒められることに弱いタイプだった。 今のプレーがよかった、と褒められた瞬間次は失敗する。何より、褒められたことに対して未だに「そんなことはない」と否定から入る。 おまけに、褒める言葉も豊富に持ってはいない。いや、正確には時間を費やせば各々に向けた賞賛の言葉を出すことができる。 今褒めたいと思うその場で、とっさに言葉が出てこないところが、私が他人の賞賛の言葉に美しさを感じる所以なのだと思う。 誰かの

          賞賛の言葉

          つながりを保つもの

          ここ3年くらい、状況が状況なこともあって何かと「人とのつながり」について考えることが多い。 磁石が引き寄せ合ったり退け合う図を、幼いころは理科の教科書なんかでよく目にした。くっつくと離れるで分かるところを、未だに独特の表現を覚えている部分に印象の強さを感じる。 人とのつながりは、磁石みたいに2つのパターンではない。 くっつくために近づく過程、離れるまでの過程、磁石がただの2パターンに至るまでの一瞬一瞬の過程が人と人の間には存在している、気がする。 パターンが多いから、安

          つながりを保つもの

          ひとり

          小さいころから、特定の友人と一緒にいるということがなかった。 ずっと誰かと一緒にいることが怖いのだと思う。 自分の境遇・信念・悩み・考え…すべてを知られることは何となく怖い。 相手が何でも分かったつもりになってしまうとでもいうのだろうか。もしくは、依存してしまうのが怖いとか。 理由は何であれ、今になってそういう自分の行動を後悔している。 知り合いは多いけれど、頻繁に会う友人がいるというわけでもない。誰かとつながりをもちたいと思ったときに、いざ声をかける友人はいない。 こ

          ひとり

          読者の後出しじゃんけん

          気持ちを言葉にして、それをつなげていって文にするとき、私たちはいつもその文を見る「誰か」を思い浮かべている。 その「誰か」が多ければ多いほど、自分の文が届くのには時間がかかる。 締め切り直前のレポート、明日会う友人に渡す手紙、これはすぐに届くことが多いから、今ここにある自分の気持ちにかなり似たものを届けることができる。 そう考えると、本を読む読者の立場になった我々は、まあなんともずるい後出しじゃんけんをしているようだなと思う。 読者に届いている時点で、そこでは本人が書き始

          読者の後出しじゃんけん

          【小説】CASE1:ハタワタル

          ワタルは、絵にかいたようなシングルファーザーだった。 妻と離婚したのはもう15年も前のことである。3歳の一人息子を連れて、自分の給料でぎりぎり家賃が払えるアパートの一室を借りたその日から、ワタルに自分の時間などというものはなかった。 幼稚園、小学校、中学、高校…。慣れない弁当作りや家事の数々をこなしたが、離婚した時期は幸いまだ息子が幼いころだったから何にでも挑戦できた。何よりすぐ近くで息子の成長を見守れることが、ワタルにとってこの上ない幸せだったのだ。離婚した妻が息子の姿

          【小説】CASE1:ハタワタル

          まちがい万歳

          まちがいを見つけることって、どうしてこんなにも楽しいのだろう。 小さいころには、みんなで1つの本に集まったりしてまちがい探しをする。 自分だけが見つけたまちがいを自慢げに教えたりしてあげて、「自分で全部見つけたかったのに」なんて少し言い争いになったりして。 まちがい探しの本は、自分がその場所を出るそのときにはもう全部読み終わっていて、もしかしたら何周も読んでいて全部覚えている、なんて子もいる。 それからもう少し大きくなると、自分たちだけで先生の間違いに気づいたり、友達の間

          まちがい万歳

          一度しか会わない他人だとしても

          自分が受け入れられない人物に遭遇したとき、あなたは一番にどんな印象をもつだろうか。 ここでの遭遇するは、たとえば他人の理解できない行動を見かけることも含んでもらって構わない。電車とか道端とか、外出の機会が多い人ほどそういった場面はほぼ1日1回以上のペースで経験しているのではないかと思う。 ということは、本質的にそれだけ合わない人が世界にはごまんといるのではないかと思える。これは推測としてはとても面白い。 付き合っている者同士が些細なきっかけで別れるように、私たちは相手のす

          一度しか会わない他人だとしても

          一瞬の事実

          クラスメイトの一人が、線路に飛び込んで自殺した。 友人の口から発せられたその出来事で、寝不足だったカノコの目ははっと覚めた。 学生時代は、誰だって一度くらい死にたいと思ったことがあるはずだ。 でも多分その大半は現状から逃げたいっていう意味で、本当に死んでしまうことなんて想像していない。 カノコだって何度もそう思ったことがあるけれど、結局朝になれば枕に落ちた涙と一緒にその気持ちはどこかへ流されていく。 それが一夜の感情だと信じて疑わなかった。 でも今、クラスの机は1つだけ空

          一瞬の事実

          一人称の使い分け

          音楽を聴いていて、一人称が気になってしまうことがよくある。 最も共感を得られそうな例を出すとするなら、大人数の女性アイドルグループの曲。 一人称はほとんどが「僕」なのだ。歌っているのは女性、なのにである。 曲の中の一人称は、いわばその歌詞が表す物語の主人公なんだと思う。 そう考えると彼女たちは1人の男性のストーリー・心情を音楽にのせて歌っている、ということになる。 ここでぜひ、少しだけでもいいから考えてみてほしい。 貴方が心の中で何かを思うとき、そこに一人称はあるだろうか

          一人称の使い分け