まちがい万歳

まちがいを見つけることって、どうしてこんなにも楽しいのだろう。


小さいころには、みんなで1つの本に集まったりしてまちがい探しをする。
自分だけが見つけたまちがいを自慢げに教えたりしてあげて、「自分で全部見つけたかったのに」なんて少し言い争いになったりして。
まちがい探しの本は、自分がその場所を出るそのときにはもう全部読み終わっていて、もしかしたら何周も読んでいて全部覚えている、なんて子もいる。

それからもう少し大きくなると、自分たちだけで先生の間違いに気づいたり、友達の間違いに気づいてくすくす笑ったりするようになる。
間違っている人は何が何だか分からなくて、楽しそうな人たちに聞いてみるけど、くすくす笑っている人たちは気づいていないことがまたおかしくて、さらに笑ってしまう。

だからそのうち、間違いを見つけられることが怖くなっていく。見つけることはあんなに楽しかったのに、いつしかみんな間違うことを怯えて、間違いがばれることを恐れて過ごすようになっていく。

まちがいを見つけることは、いいことだろうか。
まちがいの反対は、正解だろうか。
たぶん小さい頃に読んでいたあの絵本は、右の絵も左の絵も同じだったら何も面白くないだろう。次のページは、右と左の違うところをマルで囲んで「これが正解だ」というけれど、もしそうだったら何も面白くない。

きっとまちがいは、見つけられるためのものなんだと思う。
見つけること、見つけられることがどうってことではなく、見つけられるためにまちがいは存在するのだ。
それから直して正解にするとか、そんなことは問題じゃない。

一緒になって、これが間違いだったね、そう気づいて嬉しくなった気持ちを、いつまでも忘れずにいたい。

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