言葉という限界と、感情的であること

「言葉にしてしまったら終わり」という言葉も含めて、言語はある意味感情の最高地点だ。
最高地点とはいわば限界。ここが一番上だと決めてしまったら、人はその上にある新種の生物・新たな秘境に気付かない。コロンブスがアメリカ大陸をアジアだと決めつけてしまった時のように、それは往々にして起こることだと思う。

そう思うとナスカの地上絵といい、飛行技術の発達で「上から客観的に眺める」が可能になってしまったことは、限界の勘違いをなくすことだとしても少しロマンには欠ける。気がする。

といっておいて、ここで自然の神秘やロマンを語りたいのではない。
これに付随して思うことは、感情的でないと嘆く人ほど感情に関する言葉が豊富である、ということ。

感情的な人ほど、喜怒哀楽で全然事足りるくらい表現のパターンはシンプルだ。
逆に素直じゃない、という人ほど、悲しいことを「寂しい」「恋しい」「切ない」とか言う。

言葉は、言葉による表現は知識を広げてくれるんだろうか。
悲しいときは、悲しいと、何も手をかけずに口から出せるようになることが感情的なら、言葉はどこまで必要なのかと思った。

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