【小説】CASE1:ハタワタル

ワタルは、絵にかいたようなシングルファーザーだった。

妻と離婚したのはもう15年も前のことである。3歳の一人息子を連れて、自分の給料でぎりぎり家賃が払えるアパートの一室を借りたその日から、ワタルに自分の時間などというものはなかった。

幼稚園、小学校、中学、高校…。慣れない弁当作りや家事の数々をこなしたが、離婚した時期は幸いまだ息子が幼いころだったから何にでも挑戦できた。何よりすぐ近くで息子の成長を見守れることが、ワタルにとってこの上ない幸せだったのだ。離婚した妻が息子の姿を見たいと連絡してくることはなかったが、自分の方が恵まれているとワタルは疑わなかった。


そしてついに、息子が家を出る日がやってきた。大学進学をきっかけに、家から何キロも離れた先で1人暮らしをすることになったのである。息子が自分のそばを離れることにワタルは反対しなかったし、むしろ大いに賛同した。ワタル自身も、大学進学を機に実家を出た経験があったからだ。

引っ越し当日、ワタルは息子にあるものを渡した。
通帳と、キャッシュカードだった。ワタルは、いつか息子が自分のもとを離れても暮らしていけるようにと、毎月の給料から少しずつ切り崩した分を別の口座に貯めていたのだ。
息子は、「ごめん、ありがとう」と言って泣いていた。ワタルにはその言葉だけで十分だった。


アパートのすぐそばの木が青々とし始めたころ、ワタルは自ら命を絶った。
大家さんが見つけたときには彼の回りに薬が散らばっていて、それを一度にたくさん飲んでしまったことが死因だと後からわかった。
睡眠薬だった。
同僚によれば、最近のワタルは出社時間に遅れてくることも多く、仕事でミスをすることも増えていたという。

「最近彼はよく言ってましたよ、『息子が家を出て自分の時間が増えたんだ、何か趣味でも見つけないとな』ってね。」

息子で埋まっていた彼の時間は、突然ぽっかりと空いてしまった。それがワタルにどんな影響を与えたかなど、誰も知るすべはなかった。


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