人が人を見ること

満員電車で死んだような顔をしている大勢を、ずっと見習ってきた。
学生時代は校門から駅のホームまで周りも気にせずべらべらと話していたが、一度電車に乗ればその静けさに黙らざるを得ない。
いわゆる無言の圧力、というやつであろう。

昼間ののどかな車内で幼いながらにふるまえば、それは「可愛い」といわれ時に落ち着いた紳士淑女に褒められたりもする。
それが朝晩は、同じ電車だというのに一変する。
咳払いの1つさえも許されない空気。
イヤホンをつけ、目線を下に向け、隣によりかからず寝たふりをする。混みあってきたら出来るだけ自分の体を小さく縮めて、やり過ごす。

電車というただでさえ窮屈な空間で求められる姿勢は、まったく窮屈だ。
そう思っていたのに、なぜか今では自分自身も周りに合わせている。
何なら、隣でコンビニのホットスナックを食べ始めた者に無性にいらいらするくらいには、その姿勢が染みついてしまっている。

なんとも悲しいことだと思う。
だからこそ、たまに外に出ない日の車内は美しく感じる。
まるで旅行先で乗ったローカル鉄道みたいな雰囲気だ。
そこには無邪気に笑ってはしゃぐ子供の声、乗り換えを何度も確認する老夫婦の姿がある。

人は人を見ることに固執さえしなければ、きっともっと、自由なんだろう。

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