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『ボブ・マーリー』レゲエ・ミュージシャン苦難の生涯❶アメリカ黒人音楽入門④

久しぶりに『アメリカ黒人音楽入門』シリーズです。
今回はレゲエの神様『ボブ・マーリー』についてです。

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①ボブ・マーリー概略紹介

本名 ロバート・ネスタ・マーリー(Robert Nesta Marley OM) ※"OM "=『メリット勲章』ジャマイカ政府によって授与される同国3位勲章
生年 1945年2月6日 - 1981年5月11日
60年代から80年代初頭まで、レゲエ音楽とカウンターカルチャーの活躍により、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに貢献した。
また、彼はラスタファリの象徴、ジャマイカの文化とアイデンティティの、世界的なシンボルともみなされた。
彼の音楽と思想は後進のミュージシャンなどに影響を与えた。

代表曲『One Love』

One Love (Official Fan Made Music Video) - Bob Marley

1984年 最大のヒット作『レジェンド』

ボブ・マーリーの死後も公式となるアルバムもあるけど、ここでは割愛します。

『レジェンド』ボブ・マーリー Greatest hits album by Bob Marley and the Wailers リリース 1984年5月 レーベル アイランド/タフ・ゴング

1984年 ベストアルバム『Legend』がアイランド・レコードから発売。
これは史上最高の売上げを記録しているレゲエ・アルバム。
2014年12月の時点で、世界中で3,300万枚以上販売されている。
2020年1月現在、ビルボード 200アルバムチャートで合計609週間チャートイン。これは歴史上2番目に長い記録である。

アイランド・レコード所属以降の『ボブ・マーリー』の代表曲が網羅されているベストアルバムです。

②『ラスタファリニズム』について

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『ドレッドロックス』
(ドレッドdread=恐ろしい、locks=房状の)
ラスタファリアンの多くはこの髪型をしている。
これは、旧約聖書の中の記述に則り、たとえ髪の毛を切ったり剃る目的であっても、自らの身体に刃物を当てることを禁じられている。
その結果、頭髪が絡まって房状になったもの。

『ラスタファリニズム』の概要としては、
・聖書を聖典としている
・特定の教祖や開祖はいない、教義も成文化されていない

・宗教ではなく、思想運動であるとされる
・アフリカ回帰運動の要素を持つ
・エチオピア帝国最後の皇帝『ハイレ・セラシエ1世』=ジャー(聖書の神ヤハベ、エホバなどと同義の唯一神)の化身、もしくはそれ自身だと解釈する

 『ジャマイカ』という国家の歴史的に、一握りのエリートによって支配され、社会的に抑圧されてきたジャマイカ市民による抵抗運動が発展したもの。
その表れが、
・メシア主義=簡単にいうなら救世主待望論
・千年王国思想=終末の日が近づき、『ジャー』が直接地上を支配する千年王国(至福千年期)が間近になったと説く(ラスタの場合、多分に現実逃避的)

ラスタの生活様式の一部
・菜食主義
・ドレッドロックス
・ガンジャ(大麻)を聖なるものとして見ることなど

 『ラスタ』は、1970年代にレゲエ音楽、とりわけ『ボブ・マーリー』によって全世界に波及する。全世界に100万人のラスタファリ運動の実践者がいると言われる。

※なお、ジャマイカの多数派宗教はキリスト教(プロテスタント・バプティスト派)であって、ラスタファリズムを信仰するのは全国民の5~10%前後である。

詳細は上のリンクを参照してください。

③初期『ウェイラーズ』結成から『タフ・ゴング』レーベル設立まで

※今回は1972年以降の『アイランド・レコード』契約以降を中心に紹介するので、それ以前はざっと概略紹介です。

1957年 ボブは母親のセデラと共にキングストン郊外のスラム、トレンチタウンの官営地に引っ越す。
ボブたちが住む借地には、同じく引っ越してきていた『バニー・ウェイラー』一家も住んでいた。
ボブとバニーの二人は米国のラジオ局から放送される最新のR&Bや新しいスカ音楽などを聴き、音楽への探求を深めていった。
ボブとバニーは、サード・ストリートに住んでいたシンガーのジョー・ヒッグスが開く無料の音楽教室に参加し、音楽的な教育を受けた。
その際に『ウィンストン・マッキントッシュ(ピーター・トッシュ)』と出会う。
1961年 ボブは既に作曲を始めており、レスリー・コングの『ビヴァリーズ・レコード』の店へ売り込みに行くも門前払いを食らう。

1962年 ビバリーズ・レコードから初のレコード・リリースがデビューとなる。※1962年デビューはビートルズと同じ。

1963年ジャマイカの『スタジオ・ワン』と契約。
スタジオ・ワンのレコードプロデューサーである『コクソン・ドッド』と契約する頃、バンド名を『ザ・ウェイラーズ』にした。
しかし、スタジオ・ワンは曲がいくらヒットしてもミュージシャンにお金は一切入ってこないシステム。
ボブは、同じ時期に結婚したこともあって、アメリカのデラウェア州に渡っていろんなアルバイトを経験。

1970年の7月頃 デラウェア州で稼いだ僅かな資金をもとに、キングストン市に自身のスタジオ、レーベルである『タフ・ゴング』を設立。

1971年夏 『タフ・ゴング・レーベル』から発表した「Trenchtown Rock」が大ヒット。
暮れにはジョニー・ナッシュの英国ツアーに参加。
CBSから「Reggae On Broadway」を発表、しかし不発に終わる。

④『アイランド・レコード』と契約以降

1972年 『クリス・ブラックウェル』アイランド・レーベルと契約。

アルバムのレコーディングを開始。
ブラックウェルは「レゲエのリズムよりもゆったりと漂う催眠的な雰囲気」を望み、ボブのミックスとアレンジを再構築。
ボブはロンドンへ出向き、ジャマイカ音楽の低音が効いた重たいサウンドのミックスを調整し、2トラックを省略するなど、アルバムのオーバーダビングを監督した。
そしてやっとメジャーデビューと呼べるのは1973年。

1973年『キャッチ・ア・ファイアー』

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ZIPPOライター型デザインの1stアルバム"Catch A Fire"The Wailers.

『キャッチ・ア・ファイア』ザ・ウェイラーズ リリース 1973年4月13日
レーベル タフ・ゴング/アイランド プロデュース ボブ・マーリー、クリス・ブラックウェル

レコーディング終了後、クリス・ブラックウェルによって米国のミュージシャン達と共に英国バージョンのアルバムミックスが制作された。
ブラックウェルは当時のロック市場に対してウェイラーズを売り出そうとしていたため、全体をよりロック市場受けするものとするために、アルバム全体に改変を加えたのである。
ただし、マーリー自身はこのような改変を好意的に受け止めており、その後の音楽性にも取り込んでいる。

Concrete Jungle

『コンクリート・ジャングル』にギターソロが追加されたり、曲の回転を高めスピードが速められたりした。
この頃はボブ・マーリーがリーダーで、バニー・ウェイラー、ピーター・トッシュの3人のメンバーが中心で、その他メンバーは流動的です。

1973年『バーニン』

『バーニン』ザ・ウェイラーズ リリース 1973年10月19日
レーベル タフ・ゴング/アイランド プロデュース クリス・ブラックウェル、ザ・ウェイラーズ


前作『キャッチ・ア・ファイア』に対する音楽雑誌や音楽ファンの反応を見たクリス・ブラックウェルは、早くもマーリーに次のアルバムのレコーディングとツアーの準備を指示した。
そのためアルバム『バーニン』は前作から約半年というかなりの短期間でリリースされた。

Get Up Stand Up (Official Fan Video 'Legend 30th') - Bob Marley

ピーター・トッシュとボブ・マーリーの共作。バンドの代表曲。

I Shot The Sheriff

マーリーのスタンダード・チューン「アイ・ショット・ザ・シェリフ」
『キャッチ・ア・ファイア』は成功したものの、英米のロック市場におけるレゲエの認知度はまだかなり低かった。
そんな中、この曲は、

I Shot The Sheriff.Eric Clapton

『エリック・クラプトン』にもカバーされた。
はっきり言ってこのクラプトンのカバーが、初期ボブ・マーリーの知名度をあげた貢献値は大きい。

しかしこのアルバムを最後に、バニー・ウェイラーとピーター・トッシュのザ・ウェイラーズが脱退。
3人でのアイランド・レコードでの活動は2~3年と短いが、結成は1963年からなので、3人は12年間活動をともにした事になる。

1974年『ナッティ・ドレッド』

『ナッティ・ドレッド』ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ リリース 1974年10月25日
レーベル タフ・ゴング/アイランド・レコード プロデュース ザ・ウェイラーズ、クリス・ブラックウェル

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