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『デヴィッド・ボウイ』、『ブライアン・イーノ』、『トッド・ラングレン』一流ミュージシャンでありプロデューサー、エンジニアでもある3人

今回はレコーディング・スタジオにいる『レコーディング・エンジニア』と言う視点での、3人のミュージシャンについての記事です。

①『デヴィッド・ボウイ』主に『イギー・ポップ』との関係

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David Bowie『デヴィッド・ボウイ』

ボウイのデビュー前から初期の頃までのキャリアの説明は省きますが、初期の頃から既にエンジニアとしての技術も優れていました。
ボウイはキャリア初期のアルバム『ジギー・スターダスト』がヒットした頃、2人のミュージシャンとプロデュースで関わり、1つのバンドに楽曲提供。
どれも成功させています。

『ジギー・スターダスト』デヴィッド・ボウイ1972年 RCA
プロデュース デヴィッド・ボウイ、ケン・スコット

1972年 5枚目のアルバム『ジギー・スターダスト"Ziggy Stardust"』がヒットした時、当時所属していたRCAレーベルからの依頼でまず、
ルー・リードのソロアルバム『トランスフォーマー"Transformer"』をプロデュースしました。

1.『ルー・リード』のアルバムプロデュース

『トランスフォーマー』ルー・リード  1972年 RCA
プロデュース デヴィッド・ボウイ、ミック・ロンソン

これは『ヴェルヴェット・アンダーグランド』を解散して本格的にソロ活動を始めたルー・リードの売り上げを後押ししようと、
同じRCA所属の当時人気のボウイにプロデュースをさせた。
デヴィッド・ボウイと、当時ボウイのバンドにいたミック・ロンソンがプロデュースを担当。
プロデュースの技術よりもボウイの知名度に寄り掛かろうと言う期待の方が大きかったと思います。
実際にボウイもルー・リードのファンでした。

Walk on the Wild Side.Lou Reed

『ワイルド・サイドを歩け』はルー・リードが1972年に発表した楽曲。リードの代表作の一つ。数多くのライブ・バージョンがある。

RCAの期待通りセールス的には成功したものの、当のルー・リードはアルバムの出来が気に入らなかったと言う話です。

続いてプロデュースの話はあったけど、ボウイ自身のスケジュールの都合で楽曲提供にとどまったのが、
『モット・ザ・フープル』

2.『モット・ザ・フープル』最大のヒット曲提供

All The Young Dudes.Mott The Hoople.

幸か不幸か『モット・ザ・フープル』にとっても最大のヒット曲となり、自然消滅状態だったバンドのメンバーがまたしばらく活動を続けることに。

ボウイのファン目線で言えば提供した曲が良曲すぎる。
普通にボウイ自身のシングルとしてリリースしてもヒットしていたはずです。

All The Young dudes(1997 Remaster)David Bowie

おそらくボウイ自身がモット・ザ・フープルのファンだったことと、スケジュールの都合でプロデュースできなかったというお詫びのつもりで、ここまでの良曲提供になったと推察します。

そしてIggy Pop(イギー・ポップ)です。

3.『イギー・ポップ』プロデュースから薬物依存更生まで

彼の場合はボウイ自身がイギー・ポップを気に入っていていました。
当時イギーが結成していたThe Stooges(ザ・ストゥージズ)というバンドが、イギー自身の薬漬けの乱れた生活とメンバーの素行の悪さから来る不真面目さを理由に、
当時所属のレコード会社からクビ同然の扱いだった。
そこでボウイはバンドごと、イギーをイギリスに招きます。

そしてボウイはマネージャーを通じてコロンビアとの契約まで面倒をみる。
ところが、
イギーはボウイが彼らのアルバムをプロデュースすることを拒否。

結局自分たちでレコーディング開始。
しかし結果として、素人同然のレコーディング。
(24トラック中3トラックしか使用していない、音源が楽器ごとに分離されていないなど)

レコード会社はこのテキトーすぎる音源のミックスを結局ボウイに丸投げ。

そうして完成したのが"Raw Power"と言うアルバム。

『ロー・パワー』 イギー・アンド・ザ・ストゥージズ 1973年 コロンビア
プロデューサー イギーポップ

ボウイはツアースケジュールを1日だけ空けてスタジオに出向いた。
24トラック中3トラックしか使用されていない上、その3トラックも楽器ごとに分離録音されていないというマスターに手を焼いた。
結果的に
・ヴォーカルとギターを目立たせる一方で
・低音が目立たなくなる形に妥協する
ことで仕上げた。
ミックスダウン完了後、事務所はメンバーをビバリーヒルズからハリウッドに移動させた。
このような騒動を経て『ロー・パワー』は1973年2月にリリースされる。

しかし、ギグが当時の基準では過激なものだったことから事務所はバンドをツアーに出すことに消極的だった。
加えてアルバムの内容も気に入らなかった。
そのため、ツアーやプロモーション活動を企画することなくバンドをハリウッドに放置した。

結果的に『ロー・パワー』はプロモーションがほとんど行われないことになり、ストゥージズの2ndアルバム『ファン・ハウス』に続いて商業的に失敗した。

『ファン・ハウス』ザ・ストゥージズ 1970年 エレクトラ
プロデュース ドン・ガルッチ

その後、イギーはまたしても薬漬けになって解雇。
普通はそこで見捨てられるけど、ボウイはイギーをベルリンに呼んでソロアルバムを「共同」プロデュース。

そうして完成されたのが、

『イディオット』イギー・ポップ 1977年 RCA
プロデュース デヴィッド・ボウイ

Nightclubbing.Iggy Pop

『ラスト・フォー・ライフ』イギー・ポップ  1977年 RCA
プロデュース デヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、コリン・サーストン

イギー・ポップ初のソロ名義作品で、2作品を制作、リリース。

しかしイギーは慣れないスケジューリングとレコード会社からの過剰な要求に押しつぶされ、またしても薬漬け。
廃人同然の状態にまで。

イギーの不運もあったけど、普通はここで見捨てられる。

しかしボウイはかつてイギーと一緒に制作したアルバム『イディオット"The Idiot"』より『チャイナ・ガール"China Girl"』という曲を発掘。
アレンジし直し、自身のシングルとして発売。結果的に大ヒット。

China Girl.David Bowie 1983

China Girl.Iggy Pop 1977

この曲の特大ヒットにより印税の半分がイギーに入り、イギーは経済的に相当救われた。
その後薬物依存も克服し、何度目かの再スタート。

イギーはいくら才能があったとしても、ボウイに出会っていなかったら埋れて終わっていたと思います。

1990年代の日本の音楽雑誌には、「ボウイがイギーを見捨てなかったのは、イギーに有り余る才能と、人間的魅力があったから」とか、
「ボウイはイギーの才能を吸収し、自分の手柄とした」なんていうライターが実際にいました。

Perfect Day.Lou Reed Bono Dr John Elton John D Bowie
Single by various artists 1997年
Producer Steve Kelynack, The Music Sculptors; Mark Sayer-Wade & Tolga Kashif & Simon Hanhart

1997年 ルー・リードは『トランスフォーマー"Transformer"』収録の『Perfect パーフェクト・デイ"Perfect Day"』を豪華シンガー参加メドレーでリメイク。
ボウイも参加。

Perfect Day.Lou Reed

こちらは『トランスフォーマー』収録のオリジナル・ヴァージョン。

Trainspotting (1996) Official Trailer - Ewan McGregor Movie HD

 映画『トレインスポッティング』1996年公開 監督 ダニー・ボイル 脚本 ジョン・ホッジ 出演 ユアン・マクレガー、ロバート・カーライル、ジョニー・リー・ミラー、ユエン・ブレムナー、ケヴィン・マクキッド、ケリー・マクドナルドほか

1996年 映画『トレインスポッティング"Trainspotting"』のサントラに、イギーの『ラスト・フォー・ライフ"Lust For Life"』が使われて、映画とともに曲もスマッシュヒット。

Lust For Life.Iggy Pop

映画『トレインスポッティング』プロモーションのために制作されたPV。

②『ブライアン・イーノ』ロキシー脱退後、音楽プロデューサーとして

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Brian Eno『ブライアン・イーノ』

※こちらはQuoraでの過去回答の手直しです。

質問『ロックバンドのメンバーで、リーダーではなく、主要スターではなく、しかしソロとしても超大物というミュージシャンと言えばどのバンドの誰を思い出しますか(私はイエスのリック・ウェイクマンです)?』

この質問を見て真っ先に浮かんだ人物が、『ブライアン・イーノ』でした。

『ロキシー・ミュージック』ロキシー・ミュージック 1972年 アイランド(オリジナル盤)EG(リイシュー盤)
プロデュース ピート・シンフィールド

Re-Make / Re-Model - Roxy Music

イーノは英国ロックバンド『ロキシー・ミュージック』の初期メンバー。
しかし、当初からロキシーの中心メンバーは明らかにブライアン・フェリー

ロキシーがプロデビューし、1972~1973年の短い期間、1stと2ndアルバム2枚のみ参加で、イーノは早くも脱退。

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