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55.アラフィフのイタリア移住生活

最初に移住を決意してイタリア入りしてから約8ヵ月かかって念願の滞在許可証をやっと手に入れることができました。
ちょうど10年前の今ごろ、イタリア暮らしの初心者としての生活が始まったのです。
何もかも分からないことだらけ。
旅行で来るのと住むのとではだいぶ様子が違いました。


はじめてのイタリア独り暮らし

東京生まれ東京育ちの私にとってガスは都市ガスしか知りません。
元栓をひねれば出てくるもので、それが無くなるときが来るとは想像もできませんでした。

ある日、パスタを茹でていたら途中でガスが止まります。
最初は故障かと思ったのですが、私の借りたアパートはプロパンガスだったのです。
暖房やシャワーのお湯もプロパンだったので、引っ越して新しいガスを入れたのに3日間で無くなったときには驚きました。

日本にいた時のように暖房をずっとつけっぱなしにしていたのですが、そのとき、イタリアでは夜間や日中などこまめに暖房を切り、部屋の中は薄ら寒いのが普通なのだということを知ります。

一事が万事この調子です。

ゴミ出しは夜間のうちにしておくとか。
たとえばローマ中心部では道路に設置された巨大なゴミ箱にいつでも捨てて良いことになっているのが、ブラッチャーノでは早朝4~7時に回収されるので夜8時以降に出すことになっています。

光熱費の支払いは2ヵ月ごととか、雷が鳴り始めたら家中のコンセントを抜くとか、排水管掃除をマメにしなくちゃいけないとか、銀行振り込みのことはボニフィコと言うとか、日曜の午後はスーパーマーケットも営業しないこととか、日常生活ではわりと重要なことが東京のそれとはことごとく違いました。
戸惑いつつも新鮮で毎日が冒険みたいな暮らしに、気持ちが一気に若返りワクワクしていたのを憶えています。

アートスクールでの日々

当時住んでいたアパートはブラッチャーノ駅まで歩いて7、8分の場所にありました。
ローカル線に乗りローマ・サンピエトロ駅まで約45分、そこから学校までサンピエトロ広場を横切り近道をしても15分ほどかかります。
こうしてローマの学校まで通うというアラフィフの学生生活が始まりました。

テヴェレ川沿いでスケッチ。奥は先生

絵画を習うなんて高校生のとき以来です。
趣味でやったことすらありません。
本当にイチから学びましたが、担当の先生がとてもやさしい方で、アートにうまいヘタは関係なく表現したいという気持ちのほうが大切なのだと教えてくれます。
上手な技術とは、その表現を他者に伝えるためのテクニックでしかなく、本当に大切なのは表現の個性やパッションだと。

先生のお屋敷にあるアトリエ
フレスコ画のステキなダイニングで食事の準備

私の先生は実は、ローマ教皇を輩出したこともある名門貴族に嫁いだ方でした。
ローマ郊外にある代々受け継がれたお屋敷に住んでいて、アトリエに招待してくれたりそこでご飯をごちそうしてくれたりしました。
グラスやお皿、カトラリーなどの正式な置き方を教えてくれたのもこの先生です。

アートだけでなく、古き良きイタリア文化も一緒に学ぶことのできる貴重な学生生活となりました。

イタリア人の友だちづくり

せっかくイタリアに移住したので、なるべく日本人同士でつるむのは止めようと移住当時から決めていました。
というのも、2ヵ月間だけローマに住んでいたとき在住日本人の食事会に行ったことがあるのですが、あまり好きになれなかったのです。

彼ら、彼女らは仕事でイタリアに来ていて、そこでさんざんイタリア人と接しています。
プライベートぐらいは日本人同士、日本語でくつろぎたいということでしょう。
ただそこに日本人らしい気遣いはなく、内面までイタリア人化してしまったかのような殺伐とした空気が流れていました。
ローマから引っ越したのはそれに染まりたくなかったから、というのも実は理由の1つです。

ブラッチャーノはローマ郊外の田舎町。
私の周りに日本人は誰もいませんでした。
友だちを作るならイタリア人、またはヨーロッパ諸国から移住してきている人たちになります。

大家さんやその友だち、そしてブラッチャーノでワインスクールに通うことになったのでそこでの友だちなど、知り合いは瞬く間に増えていきました。
イタリア語の話せる日本人。
ブラッチャーノでは稀有な存在なので目立ちますし、1度会えば覚えてもらえます。
そして、それは10年経った今でも変わっていません。

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