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無難な意見を言ってても成長できない

自分の意見を言うのが苦手だ。
職場で反するふたつの意見が出て、「どう思う?」なんて聞かれた時には、誰もに気を遣ってしまう。それは優しさではないのだと、以前、何かで読んだことがある。自分の意見を言わないのは、相手を守っているようで、自分を守っているのだと。
そうは言っても、意見を表明すればどちらかの意見に加担するようで、違う意見を持つ人が不快にならないようにと言い方に気を遣う。一般的にはそれを八方美人というのかもしれなくて、そう言われると反論したくなる一方、そうかもなと腑に落ちもする。

幼少期からそうで、衝突が好きではない。人を傷つけたくないし、自分も傷つきたくない。
真面目な議論の場だけでなく、日常のささやかな意見表明さえもそうだ。たとえば、友達と食事に行く店の候補や、旅行の行き先。
『みんなの食べたいものってなんだろう? どこに行きたいんだろう?』
『自分が言うことで、違う意見の人が言いにくくなるんじゃないか。』
そう思うと、「みんなの行きたいところでいいよ!」なんて言ってしまう。

でもそれって相手を困らせているかもしれない。
相手も同じように気を遣うかもしれないし、でも誰かが決めなくては進まないから、無理して決めてくれているのかもしれない。
だとしたら、自分が心を軽くした分、相手にその重さを背負わせてることになる。それって、優しさじゃない。優しさと優柔不断は違う。

なかなか言えないのも性格だからと割り切ってきたけれど、そんな自分を変える必要があると本気で思うようになったのは、仕事復帰してから。
尊敬する上司が、自分の意見をはっきり言えるのだ。事務局さんに対して、毅然と指示が出せる。
私はもしこの先、会社でいうところの部下ができたとして、指導したり自分の意見を言えるだろうか? 以前の職場ではできなかったし、あの頃と変わっていない今の自分のままではきっとできない。
議論する場が増えたとき、「私もそう思います。」にほんの少しだけ何かの意見を足す程度の返答しかできないようでは駄目だと思ったのだ。

無難な意見に、価値はあるのだろうか。
波風は立てない。でもそれはいいことだとは限らない。
人との衝突が良くも悪くも起きない。だから物事を前に進ませる力を起こせない。
それって、結局は誰の利益にもなってないよな、と思う。

じゃあどうすれば言えるようになるのかと考えてみると、言うだけのことをやっているという自分への自信が必要なのではないかと思った。
意見を表明する前提の知識の習得や、筋道だった思考。それから、意見を表明するのに見合った能力と人間力。
そこに自信が持てれば、言えるようになるのかもしれない。

尊敬する上司を見てそう思ったのだ。能力がすごい。頭もいいし、なんとなくで決めているのではなく自分の意見に根拠を持っている。言うだけのことはやっている(それを言うだけの力が自分にはある)という自負もあると思う。

私は私だけれど、とにかく今のままでは駄目だ、せっかく尊敬する人がこんなに近くにいるのだから目指してみたいと思った。
話し方も大切。毅然と流暢に話すこと。
反対の意見であっても、相手を傷つけず不快にもさせない言い方があるはずだ。いい議論ができましたねと、お互い充実感に満たされるような。

長年の癖を変えるのは容易ではなく、性格的にもものすごく苦労すると思う。これまでの自分をまったく知らない人にならば言えるのかというとそうでもない。
でも、穏便に、へこへこしていることがいいことだとも限らない。それでいい場面と、そうではなくきちんと言わなくてはいけない場面があって、後者の場面では自分の役割を果たすこと。それが大事かなと思う。
みんな多かれ少なかれ工夫しているのだろうか。何かいい対策があればぜひ教えてください。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。