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随筆(2022/10/26):自尊心や自信がないと、謙虚になるかもしれないが、卑屈にもなるし、他人の善意が全部悪意に見えてくる_4.結局、礼儀のために、自尊心や自信は有意義ではあり、薬を飲んでからその毒饅頭を食えば良いのだ

4.結局、礼儀のために、自尊心や自信は有意義ではあり、薬を飲んでからその毒饅頭を食えば良いのだ

4.1.しかし、「自尊心や自信で愚劣な無礼者になることを防いで」謙虚さを保持できたからといって、それを俺は諸手挙げて肯定もできないのです

今まで、いかに自尊心や自信のせいで、人が説教欲の虜になり、バカでみっともない無礼者になるか、ということを延々と論じてきました。

***

しかし、「自尊心や自信で愚劣な無礼者になることを防いで」謙虚さを保持できたからといって、それを俺は諸手挙げて肯定もできないのです。

なぜか。

そんなことをしても、というか、そんなことをするからこそ、自尊心や自信のない人は、とんでもない無礼をしてしまうからです。
それに、それは、本当に謙虚さなのか。
単に、卑屈なだけではないのか。

***

「礼儀というのは、私と私以外を分けて、私以外を厚遇する、たいへん公正なシステムです。
なお私は心の底から本気で言っています。皮肉と受け取られるのは心外であるなあ」

自尊心や自信がない状態で謙虚をやると、たいてい上のモードになりがちです。

実は、これがよくないのです。

なぜか。

***

「礼儀における公正とは、自ら参加した者を
「自らを自ら以外より冷遇せよ」
と冷遇するものであり、しかもその手の差別主義を内面化したやつによる参加を要求する、悪辣なものである」
と、いうことを、内面化したそいつは結果的に主張している訳だからです。

「礼儀は参加者を冷遇する。
そして、それを内面化した参加者の観点からは、怒る方がおかしい、と思える。
だって礼儀とは「そんなもの」だからだ。
え? 不満などないよ? そもそも「そんなもの」なんでしょ?」
という話、端的に礼儀の質(たち)の悪さに直結するし、他の参加者たちにとっては、受け入れられない話なのです。

***

恐ろしいことを訊きますが、それ、本当に礼儀の現場で学習したことか?
礼儀のについて、誰かから聞いた話を、勝手に想像で解釈したものではないのか?
その上で、あたかも礼儀の現場がそうであるかのように標榜して、現に礼儀の現場でそれをやっているだけではないのか?
そうなったら、礼儀を質(たち)の悪い「そんなもの」にしているのは、そういうイメージで礼儀をやっている人たち、別して自分ではないでしょうか。
だとしたら、それは風評被害を再生産しているだけです。やめましょう。

***

上の話を、礼儀を真面目に守っている人たちに言ったら、まあこんなもん
「お前らは、私一人が犠牲になれば皆が公正に生きていけると思っている、人柱因習村の住人だよ」
という類いの皮肉としてしか受け取られないでしょうし、彼らは
「いや、あなたとあなた以外を分けて、自分を人柱にしなきゃならないと思い込んでいるのは、ほかならぬあなたでしょう。
こちらの礼儀の側に、そういう難癖をつけちゃあいけませんぜ」
と忌々しげに返すかもしれません。
(そこまで優しくない人たちが相手だったら、ふつうにブチブチブチブチギレられて、超絶怒られが発生するでしょうね。
そりゃあそうでしょう。ごくごく当たり前なのでは?)

4.2.礼儀は偉い人の偉さを認定する体系であり、冷遇の体系ではない。だってそれは端的に「失礼」ではないか。それは「礼儀」ではなかったのか。なぜ逆の話を正当化している?

「礼儀は冷遇である」
という話は、
「礼儀は偉い人の偉さを認定する体系である」
という話から派生して出てきたものです。
そしてこれは
「礼儀は偉くない人の偉さを認定しない体系である」
ということでもあります。

ここまではまあ実際そうなのです。

が、
「礼儀は偉くない人の偉さを認定しない体系である」

「礼儀は偉くない人の偉くなさを認定する体系である」

「礼儀は賤しい人の賤しさを認定する体系である」
とでは、だいぶ話が違ってきます。
そしてここが大いに混同されている。

これらは、実害が違う。
前者は偉くない、
「プラスじゃない」
人を放っておいてくれるが、真ん中は
「お前はゼロだ」
といちいち言ってくる訳だし、後者は積極的に
「お前はマイナスだ」
と侮辱してくる訳です。

そして評価に伴い待遇が違ってくる。
最後のやつだと、最悪、就職はできないわ、仕事は回ってこないわ、冷や飯ぐらいになるわで、社会的に死んだも同然になるし、生計は一気にハードモードになる訳です。

***

直感に反するかもしれませんが、
「礼儀は偉い人の偉さを認定する体系である」
なら、
「賤しさを認定する行為」
は、ふつう失礼、無礼を通り越して、礼儀への敵対的行為、侮辱行為に他ならなくなります。

プラスの偉さを認定するのが礼儀の体系だとしましょう。
だったらら、侮辱というマイナスをやったら、それは礼儀とは逆の行為じゃないですか。

しかもそれを礼儀の体系に帰したら、それは端的に偽情報、しかも正反対のイメージの風説の流布という、悪意あるプロパガンダでしかなくなる。

「俺は礼儀と逆のことをしてやるし、それはまわりまわって礼儀のせいだし、礼儀とは実は「そういうもの」だ」
というの、どこからその着想を得たのですか?
イメージで物事を喋ってるやつ特有のいんちきに巻き込まれていませんか?
そして自分がそのいんちきの拡声器になっていませんか?
それは、やればやるほど自分自身を礼儀のテーブルから冷遇のテーブルに移動させる、何も得しない行為です。やめましょう。

礼儀は偉い人の偉さを認定する体系であり、冷遇の体系ではない。
だってそれは端的に「失礼」ではないか。
それは「礼儀」ではなかったのか。
なぜ逆の話を正当化している?

4.3.敬意に基づく礼儀のテーブルにおいて、謙虚さと卑屈さを別つもの

敬意に基づく礼儀のテーブルにおいて、他人への侵襲は、いかなる善意から出たものであっても、基本的には
「舐めている」
ということの顕れです。

だって
「他人の事情に自分がとやかく口出ししていい」
と思っているのだから。
こんなもん他人を舐め腐ってるんだよな。

だからこそ、
「他人の事情に自分がとやかく口出ししてよいものではない」
という敬意と自制こそが、謙虚さの本質です。

***

謙虚であることの本質は、
「他人がある程度は不可侵であり、それを自分が侵襲すべきよほどの理由がない。
あってもそれが自分の説教欲であるなら、それは道具扱いであり、礼儀に鑑みて肯定はできないし、そんなことは自分にはやれないんだ」
というところにあります。

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その謙虚さは、
「他人は自分がとやかくできる環境や道具ではなく、それ以上の固有の偉さを持つ」
からもたらされるのであり、
「自分が他人に比べて劣っていることにすべきだ」
からもたらされるのではありません。
もしそう思っているのなら、構造は同じであっても、主客の転倒した話を、要は逆の話をしています。

***

「自分が他人に比べて劣っていることにすべきだから」
という、礼儀というものの誤った解釈を、実際の礼儀に敷衍して実践したとします。
礼儀を真面目に守っている人たちは、そりゃあ
「礼儀というものを矮小化して毀損している」
と腹を立てる訳です。

他人の敬意と称して、自らを冷遇したら、礼儀は台無しになってしまうのです。
この手の卑屈さ、やめましょう。

4.4.結局、礼儀のために、自尊心や自信は霊験あらたかなのではあり、薬を飲んでからその毒饅頭を食えば良いのだ

礼儀が大事であるなら、他人から無礼を働かれた時に、
「それは無礼であるので、やめな」
と言えるかどうかは、非常に大事な話になってきます。
これによって、卑屈であるか、本物の謙虚であるかが変わってきます。
ここは、当の「自尊心や自信」、そして「礼儀に対するスジの通った理解」の有無によって左右されるところです(自尊心や自信そのものを軽蔑している場合、受け入れがたい話かもしれませんが)。

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これらが整っていれば、

「人が人を辱めるのはやはり無礼であるので、礼儀に鑑みてそれは容認できない。
あなたがやってはいけないし、あなたがされてもいけない。
私がやってはいけないし、私がされてもいけない。
私と私以外を分けるほど、礼儀というやつは依怙贔屓の過ぎたクソのような不公正な概念ではない。
それはいくら何でも礼儀というものを舐め過ぎであろう」

という態度になるでしょうね。

***

これらが欠けていれば?

「私はどうでもいい。礼儀というのは私と私以外を分け、私以外を厚遇する、つまりは私を特別扱いしない公正なシステムだ」

という話を採用しがちになります。
まあ、卑屈でしょうね。
それに、この説明では、ここでいう「私」以外の人たちは、ここでいう「私」一人を人柱にして、礼儀をやっている。という、だいぶ鬼畜生みたいな話になってしまいます。
そういうことを、ここでいう「私」は、言ってしまうことになるのです。
「お前らは人柱因習村人である。
己は人柱である。
そしてを誇りに思えと言われた。
当のお前らにだ。
なぜ今更心外そうな顔をする?」
まあ、侮辱ですよ。こんなの。

***

何の話をしているかというと、自尊心や自信が「自分への敬意」の顕れである、ということです。
実は、これがなければ、
「私と私以外を分けるほど、礼儀というやつは依怙贔屓の過ぎたクソのような不公正な概念ではない」
という話は貫徹できないし、
「それはいくら何でも礼儀というものを舐め過ぎであろう」
ということになってしまうのです。

***

礼儀を舐めないために、礼儀と言うものを
「自分を冷遇するシステム」
だと思わないようにしましょう。
それは
「クソのようなシステム」
ということと、客観的には区別できないので。
そして、
「自分は他人がとやかくできる環境や道具ではなく、それ以上の固有の偉さを持つ。
そうである以上、
「自分が自分を冷遇すれば偉い」
というのは、およそまともではない発想だ」
という形で、自尊心や自信を身に着けておくべきでしょう。
そうなれば、
「自分を冷遇するシステムである礼儀に則って生きると偉い」
という話が、礼儀をだいぶ低く見た侮辱的な態度である、ということも、ストンと肚落ちしてくるでしょう。

4.5.そして、もちろん、「他人は環境や道具ではなく、固有の偉さがある」ことは押さえておかねばならない。まして説教欲のズリネタになんかするな。という姿勢こそが、毒饅頭に対抗する薬である

そして、もちろん、依然として
「他人は自分がとやかくできる環境や道具ではなく、それ以上の固有の偉さを持つ」
ということは、ちゃんと認識しておきましょう。
これを押さえておかないと、自尊心や自信が生えてきた瞬間に、無礼極まりない説教欲ふりかざし人間になってしまいますので…
敬意のために自尊心や自信や礼儀があり、自尊心や自信が礼儀の真の尊さに通じる条件なのです。
である以上、自尊心や自信で礼儀を破壊して敬意を吹っ飛ばすの、ある種の自殺行為なのです。
やめましょう。

(続く)

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