見出し画像

沖縄の祖国復帰52年〜沖縄のガンジー”阿波根昌鴻”さんの足跡〜

はじめに

21世紀に入り、はや23年が過ぎようとしております。
今、沖縄の辺野古では最高裁のお墨付きを得て、埋立てが再開され、政府は「辺野古の埋立てが普天間基地移転の唯一の解決策である。」と繰り返し主張しています。
一体、いつになったら沖縄の基地がなくなり、世界から戦火が消えるのでしょうか?

5月3日は、憲法記念日でした。
また、「5・15」(5月15日は、1972(昭和47)年、沖縄が日本に復帰した日です)が近づいているので、今回は、沖縄・伊江島のガンジー「阿波根昌鴻」さんのことを取り上げてみました。

沖縄のガンジー”阿波根昌鴻”さん

米軍の軍事基地は沖縄本島だけでなく、本島北部の伊江島にもあります。伊江島は沖縄戦で激しい地上戦が展開されたところでした。
終戦を迎えた後も、島の枢要な場所が米軍基地として占領され、住民は住まいと耕作地を失う事となり、苦難の道を歩むこととなりました。

この小さな伊江島に住んでいた「阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)」(1903−2002年)さんは伊江島の基地反対運動の指導者で、多くの人から「沖縄のガンジー」と称されておりました。
そこで、阿波根さんの優れた運動のいくつかを、同氏の著書『米軍と農民』『命こそ宝』(いずれも岩波新書)から、皆様に紹介していきたいと思います。

真謝原は肥沃な土地

阿波根さんが耕作していた土地は 、伊江島の真謝原(まじゃばる)というところにあります。真謝原の様子についてのうたわれている琉歌を紹介します。

琉歌とは、沖縄にある短い定型詩で、「八・八・八・六」からなり、30音で構成されています。 

 真謝原の芋(うむ)や一本(ちゅもとぅ)から三ばき
 
 赤嶺(あかんに)の池(くむい)洗いどぅくる

 (歌意)真謝原の芋は、1株から3籠とれる 赤嶺の池が洗いどころ


阿波根さんは、沖縄戦で九死に一生を得ました。捕虜収容所からようやく伊江島に戻ってきた時には、島の枢要な部分は米軍に囲われていました。
阿波根さんは真謝原が再び戦争の用地になること、何より上記の琉歌でも紹介したように、真謝原の肥沃な土地が再び戦争に使用されることが許せなかったのです。

ハイビスカス

米軍との交渉


次に、阿波根さんの基地反対運動の方法について見ていきます。
基地反対運動の向かうべき相手は世界最強の組織、米軍です、阿波根さんは、クリスチャンでもあったので、米軍との交渉では、聖書の言葉をふんだんに駆使して米軍に立ち向かっていくのです。

ある日、阿波根さんと真謝原区民(以下、「阿波根さんら」と略します。)米軍の責任者シャープ少佐との交渉場面をここに引用します(1954年11月24日の交渉)。

(以下引用)
阿波根:話を始める前にお願いがあります。私たちは、皆さんと話すことができたことを喜んでいます。又、私達は皆さんを心から尊敬いたしています。お願いと申しますのは、皆さんは戦争に勝った米国の高官であります。私たちは戦争に負けた、しかも卑しい農民であります。しかし、今日はこうした考えは全然念頭に置かないで、人間対人間の平等な立場で話し合いをしてもらいたいことであります。

(阿波根は、農民には米軍に反対する意思は少しもないこと、だが三つの大きな飛行場に土地を取られ、今の残っているわずかな土地は、生活にどうしても必要であることを説明します。)

シャープ:軍が土地を必要とするのは、東洋に不安があるためである。わかりやすく言えば、敵の危険から沖縄を守るためである。

阿波根:それはありがたいお言葉であります。しかし、私たちも沖縄人でありますから、一様に私たちを守ってください。

シャープ:それはよくわかるが、大多数を安全にするためには、少数の者が犠牲になることは、気の毒だがやむを得ない

阿波根:聖書には、1匹の迷える子羊を助けるために99匹の羊を野において探したということがあります。私たちだけが犠牲になって他の沖縄人を守るということには承服できません。反対であります。

シャープ:それでは君たちは(怒りを込めて)軍に反対すると言うのか。

阿波根:反対ではありません。死んでは協力できませんから、生きていて
協力したいと思います(『米軍と農民』58ページ)。

(引用終わり)

米軍は、阿波根さんらとの交渉では埒(らち)があかないと考えたのか、1955年3月11日、武装米兵がカービン銃を抱えて続々と島に上陸し、米兵のブルドーザーによって家屋敷が壊され、畑の作物は引きならされていったのです。

阿波根さんらの抗議に米軍の責任者は「米軍の血を持ってあがない、日本軍によりぶんどった伊江島であるから米軍の自由であり勝手である。」と言い放ちました。

乞食行進のこと

このような状況の中、生活に困窮した阿波根さんらは、1955年7月20日「乞食行進」という行動を起こしました。
阿波根さんらが作成した趣意書がありますので、ここに紹介します。

「乞食(乞食托鉢)、これも自分らの恥であり、全住民の恥だ。しかし自分らの恥よりも、われわれの家を焼き払い、土地を取り上げ、生活補償もなさず、失業させ、飢えさせ、ついに死ぬに死なれず乞食にまで陥れた国や非人間的行為こそ、大きい恥だという結論に至りました。乞食になったのではなく、武力によって乞食を強いられているのであります。」(『米軍と農民』127ページ)

この「乞食行進」は、沖縄本島の北から南まで行われました。ちょうど夏休みに入った時期と重なったので、小・中学生も一緒に参加して歩きました。又、この行進では、カンパ 箱も知らず、帽子でもってお金を受け取っていたようです。
(『米軍と農民』)

祖国復帰の実現

こうして阿波根さんらは、あらゆる手段を尽くし、米軍に取り上げられた自分の土地を取り返すために、基地反対運動に取り組んできました。
阿波根さんらのこの願いは、日本国憲法のもとに復帰する祖国復帰運動とも結びつき、ついに昭和47(1972)年5月15日、沖縄の祖国復帰は実現しました。

しかしながら、復帰後も伊江島の基地「伊江島補助飛行場(射爆場)」は存続し、演習は今まで以上に激しくなっていきます。

ブーゲンビリア

戦争資料館の建設

阿波根さんは基地反対闘争を続ける中で、「平和を実現するためには、戦争というものを根本から勉強し、原因を調べなければいけない。」と考えました。

そして「反戦平和資料館」づくりを計画、多くの人々の協力を得て、1984(昭和59)年12月8日、念願の反戦平和資料館(別名「ヌチドゥ宝の家」)を開館しました。
開館日の12月8日は、日本がアメリカと戦争を始めた真珠湾攻撃の日です。

資料館の館内には、阿波根さんが20年かけて収集した戦争の実相を伝えるものばかりです。沖縄戦の際、伊江島に投下された米軍の爆弾、射爆場に米軍が投下訓練で使った模擬原子爆弾などが、所狭しと陳列されています。
館の入り口には、阿波根さんの基地反対運動への信念が書かれた垂れ幕が掲げられています。

 「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ  聖書」

 「基地を持つ国は基地で亡び 核を持つ国は核で亡ぶ  歴史」


また、館内に原爆の写真を掲げ、阿波根さんが次のような説明をしています。

 「原爆を落とした国より、落とさせた国の罪は重い」

この意味は、日本が戦争を起こした、だから米軍が沖縄、伊江島を占領し、広島・長崎に原爆を落とした。そのことを忘れてはいけない、と阿波根さんは説明しております。

こういう説明は、広島、長崎の資料館にこそ掲げたいものです。

命どぅ宝の琉歌


阿波根さんが、生涯かけて伝え続けた「命どぅ宝(ぬちどぅたから、「命こそ宝」の意味)」の思いが込められている琉歌を紹介します。

 戦さ世んしまち(戦世は終わった)
 
 みろく世ややがて(平和なら弥勒世がやがてくる)

 嘆くなよ臣下(嘆くなよお前たち)

 命どぅ宝(命こそ宝)

さいごに

阿波根さんが亡くなってから、はや20年余が過ぎております。
阿波根さんは今もなお激しく続けられている伊江島の射爆演習に眉をひそめていることと思います。

そしてふるさとの土地がすべて地主に返還され、実り多い日が来ることを泉下で祈っていることでしょう。

私は、これからも阿波根さんの理念を胸に刻みつけ、伊江島の動向にも目を向け心を配っていきたいと思います。

月桃の花

【参考文献】
阿波根昌鴻『米軍と農民ー沖縄県伊江島ー』岩波新書 B104
阿波根昌鴻『命こそ宝 沖縄反戦の心』岩波新書 249
しんざとけんしん作・石原昌家監修
『死闘伊江島戦ー不沈空母にされたシマー』前編・後編
  


この記事が参加している募集

#読書感想文

192,058件

#ふるさとを語ろう

13,699件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?