大人の絵本ブームは、大人の思考停止ではないか?
分厚い本を読むほど真剣でもない。でも、なんか「深そうな」問いがほしい。
大人の絵本とアートブーム
どうやら絵本がいわゆる”大人”の間で流行っているらしい。そのせいか、都会の大きなブックカフェ的施設には、フォトブックとともに、絵本が多く陳列されているという。
また、昨今は「アート」なんて言葉を聞かない日はない。これが重要視される主たる要因は、アートに邁進する人たちが自ら問いを立て、それにチャレンジしているからであろう。つまり、与えられた問いに、答えを与えるという図式ではない。
絵本が大人に問いかける・問い直す
さて、「絵本が実は深い」と思ってしまうのは、絵本が発する「問いかけ」にあるのではないか。子どもにも楽しめるように作られたそれは、時に「愛って何ですか?」と純然に問いて、場合によって問い直してきたりもする。
大人なると、問う・問い直すという作業は煙たがられることも少なくない。「なんでこの仕事をするんですか?」「理由はいいから、とにかくやれ」なんていう問答は、多くの人間が経験してきたのではないだろうか?
問いを自分のものにできない限りは、その仕事や作業を自分事として捉えるのが難しくなる。ざっといえば、楽しくないのだ。
だからこそ、アーティストの姿勢に憧れたりもするし、絵本から問いを得たりしたくなるのだろう。
問いを得るために浪費する
他方で、私自身も絵本を好きでよく手に取るのだが、一方でこのような不安が頭から離れない。
つまり、自分で問いを立てる・立て直すという行為を早々に諦め、絵本という果実にすぐに手を伸ばしてしまうということである。
アーティストがなぜ今注目されるのか?再三になってしまうが、彼ら自身が自分自身で問いを立て、ときにはそれを何度も問い直すからだ。そのために、彼らはひたすらに作品と、そして自分と対話する。
ただ私が絵本を手に取るとき、私は問いに至るまでの対話を省略・省力してしまっていることが少なくない。いうなれば、
自分の代わりに絵本に考えてもらう
ということだ。分厚い本を読むほど真剣でもない。でも、なんか「深そうな」問いがほしい。そんな野暮な欲求を満たす手段として、絵本を浪費しているのだ。そのような自分の姿勢は、絵本という作品に対する冒涜にも思えてくる。
大人が絵本を読んですべきこと
だとすれば、絵本からの問いかけに答えを出すだけでは不十分である。
つまり、絵本との問答を契機に、私自身が新たなる問いをみつけようとしなければならないのだ。無論、その新たな問いが見つかるとは限らない。ただそれはそれでもいい。
なぜなら、問いを見つけるための自己対話こそが、アート的な活動となるからだ。確かに、アーティストではない私には絵も描けなければ、彫刻も陶芸もできやしない。
ただ、彼らのその思考プロセスを自己の中に輸入することはできる。そうしたアート的思考の見本として、絵本の問いはきっと有用なのだろう。場合によっては最終的に絵本の問いを問い直してやるくらいの勢いが必要な気がしているのだ。
絵本との問答は、最終的に自己との問答へと昇華しならなければならない。
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一瞬フォトブックも例に出しましたが、たぶんこれも同じ構図で、印象的な写真に意味ありげなヒトコトが添えられておりまして。
それはもちろん意味ありげではなく、意味があるのでしょう。だって、表現しようと思った人がいるのだから。だとすれば、その意味を持った問いかけを自分のものとして昇華せずに、ただ漠然と
って口にしてしまっては・・・。深い・浅いどころか、穴すら掘ってねぇじゃねか!と私は突っ込みたくなるのです。
こんなことを思うたびに、大学院時代に指導教員に言われた
という一言を思い出します。
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