見出し画像

絶望的な優しさを求めて

この本は「ゆっくり丁寧に読まなければならない」と思った。

読み終えるのが惜しい『断片的なものの社会学』

久しぶりに「読み終えるのが惜しい本」に出会った。路上のギター弾き、夜の街で働く女性、ニューハーフバー、元ヤクザなどへのインタビューから社会に散らばる「断片的なもの」に迫る一冊。

問題は解決されないし、結論もないけれど

タイトルこそ学術書然としているが、難解な社会学の理論は一切出てこない。また本書は各章読み切りの短編集である。

そして、何よりも注目すべき点は学者が書く本にも関わらず、「問題は解決されないし、結論もない」点である。

「分からない」「どうしていいのか」といった学者らしからぬ文言を本書の随所に見つけることができる。しかし、社会の構造的に差別されてしまう人々と真摯に向き合い、またそれを通じた筆者自身の自己問答はハッとさせられるようなものだった。

散りばめられた絶望

この本を買ったのは確か2020年の秋ごろだったように思う。読み切ったのは年が明けて1月頃だった。

ほとんどエッセイと言ってもいいこの本は、読もうと思えば数時間で読める一冊である。しかし、私はこの本を一章ずつ、日を空けながら読んだ。

それは自分の中で、この本は「ゆっくり丁寧に読まなければならない」と思ったからだ。それくらいこの本は私にとって絶望に溢れていた。

選ばれる・選ばれない

この本はきっと質的研究のスピンオフと言っていい。

簡単に質的・量的研究の違いに言及するのなら、量的研究が膨大なデータやアンケートを処理するのに比べ、質的研究は調査対象を絞り、調査対象者一人一人を掘り下げるといった側面がある。

私も大学院時代はこの質的研究を行っていた。そうすると、一人当たりインタビューが数時間に及んだりすることもある。とはいえ、その中から論文に掲載するのはほんの一握りだ。インタビューを行ったにも関わらず、論文には盛り込めないなんてこともザラにある。

つまり、選ばれた断片と選ばれなかった断片があるのだ。

ただし、その選ばれなかった断片が今の自分を支えていたりもするし、そこに優劣はない。

断片的なものと私たち

とはいっても、私たちは情報を取捨選択するし、情報どころか他人や自分さえをも取捨選択してしまう。だからこそ、この本の筆者が言うように、私たち自身がそもそも断片的なものである。

ただ、私の論文程度ならまだしも、日常的に切り捨てられる断片がこの世にはある。そんな存在にやはり断片でしかない我々はどのように向き合えるのだろうか。

この本は解決策も結論も与えない。ただ断片が存在しているという事実を伝えるだけなのだ。これはやはり絶望といってもいいだろう。

絶望的な優しさを求めて

世間にはこの絶望を解決せんと声高に叫ぶ人もいる。それ自体は否定されるべきことではないが、ただ私はどこかでそんな「遠い人たち」として見てしまうのだ。

だからこそ、「分からない」「どうしていいのか」と悩む筆者の姿は余計に心に刺さるものがあった。つまり、筆者のやりきれない気持ちの中に、優しさを垣間見たような気がしたのだ

誰かのために声を挙げることもきっと優しさの一つである。他方で、「分からない」と言いながら一緒にその問いを見つめることも必要だと思う。ただそれは解が見つからないという事実の前では、絶望的な優しさでもある。

読み終えるのが惜しいと感じたのは、きっとここにある。すなわち、本を読み終えてしまうと絶望せざるを得ない現実社会に引き戻されると感じたということだ。

だからこそ、私は今、筆者が集めた断片と筆者自身にそのような絶望的な優しさを求めてしまっている。

ーーー

近頃は疲れてすぐ寝ちゃう日が多くなっていますが、そんな中でも一度気持ちを仕切り直して読んでいた一冊です。 

最後にこの本で印象的だった一幕を引用して終わりにしたいと思います。

ニューハーフショーに女子学生を連れて行ったときの筆者の気付き

「(ニューハーフショーの出演者が)あんたたち女はええな、すっぴんで Tシャツ着てるだけで女やから。 わたしらはオカマはこれだけお化粧して飾り立てても、やっとオカマになれるだけやからなと冗談を飛ばした。
 私は、これこそ普通であるということだ、と思った。すっぴんでTシャツでも女でいることができる、ということ。
 もちろん私たち男は、さらにその「どちらかの性である」という課題すら、免除されている。私たち男が思う存分「個人」として振舞っているその横で女性たちは「女でいる」」p171


お読みいただきありがとうございました。

この記事が参加している募集

読書感想文

最近の学び

いただいたサポート分、宿のお客様に缶コーヒーおごります!