坂本龍馬を尊敬する人が苦手だった話
「死んでくれている人は実に都合がいい。思い切り尊敬しても大丈夫だから」
ある本の一節、みなさまはどう思われますか?
坂本龍馬に会ったことないやろ?
私は昔から歴史上の偉人を尊敬する人を理解できないでいた。
いうなれば、
「俺の尊敬する人は坂本龍馬」
と発言するような人だ。
理由は明確だ。
「アンタ、坂本龍馬に会ったことないやろ」
という私の感覚に由来している。
たぶん、坂本龍馬が好きで好きでたまらない人は、本やメディアを通じて坂本龍馬を知るのだろうが、私はこうも思っている。
「坂本龍馬が偉いのか、坂本龍馬を記した司馬遼太郎が偉いのか」
まずは謝っておきたい。坂本龍馬ファンの皆様、ごめんなさい。
誰を尊敬していようと、その人の自由なのに、そこに文句を言う方がおかしいのです。
とはいえ、どこか私は腑に落ちない。
尊敬する人は誰?
私がこの質問を投げかけられたとき、顔に浮かぶのは実際、私が会って時間を共有した人だ。
私だってイチローさんの本を読んで、「イチローすげぇな」となどと思ったことはあるのだが、やはりイチローさんには会ったことがないので尊敬している人としてパッとは思い浮かばない。
現代を生きるイチローでさえ、私の中では坂本龍馬現象が起きている。
会ったことのない人が、自分の知らないところでどんな顔をしているかなんて分からんやろ?
そんなことを考えているひねくれ者がここにいる。
片思いだからこそ尊敬し続けられる
そんなひねくれ者は、こんな一説に出会った。
「(もし読むのなら)今生きている人が書いている本なんかはやめたほうがいい。生きている人間は、これから何をしでかすかわからないからね(笑)。だいたい会えばがっかりするし。その点、死んでくれている人は実に都合がいい。思い切り尊敬しても大丈夫だから。また、そういう尊敬心から思い描かれる過去は、自分にとっても本当に楽しいものになる」
(『何のために「学ぶ」のか』p.49)
これは英文学者・外山滋比古氏の意見である。
なるほど。
片思いだからこそ尊敬し続けられるのかもしれない。
片思いをしているとき、相手の嫌なところなんて目に入らないし、目に入ったとて嫌なところさえチャーミングに見えてしまうなんてこともある。
逆に、両想いになってしまったら、嫌な部分を嫌な部分として受け入れなければならない場面が出てきてしまうだろう。
だからこそ、相手の裏側を知らずに片思いで居続けることは、無垢に誰かを尊敬するために必要な条件なのかもしれないのだ。
そうやって考えると私だって、死んだ人を尊敬することは可能だし、今生きている偉人でさえ、敬意の眼差しを向けることができる。
つまり、おそらく私はイチローさんに会えずに人生を終えるので、「イチローすげぇな」という淡い恋心を持っても問題ないということだ。
坂本龍馬さんを尊敬する人へ
改めてお伝えしたい。
坂本龍馬ファンの皆さま、ごめんなさい。
坂本龍馬さんのことを坂本龍馬って呼び捨てにして、ごめんなさい。
腑に落ちないとか言って、ごめんなさい。
私も今一度考えてみました。
死んでしまった人や、今も生きているけど会えそうもない人で、私が尊敬する人は誰だろう、と。
そう、それは、高田純次さんでした。
坂本龍馬さんじゃなくてごめんなさい。
ーーー
なぜ私が俳優?タレント?の高田純次さんを尊敬しているのかは、改めて別の記事にしたいと思います。
皆さまの尊敬する人って、どんな人なんでしょうか?
よろしければ、コメントにて教えていただけると嬉しいです!
というわけで、本日はこれにて!
ご清読ありがとうございました!
(余談)
からちゃんは高校時代、坂本龍馬に似ていると言われていました。
今の私の顔はどうなんでしょう(笑)?
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