父に念願の息子ができた。

はじめに

同じ日に連続投稿失礼します。
これから書く話は、私の父、そして私の夫の
短くも思い出深い過去の物語です。

私は夫の海外転勤に伴い、結婚と同時に海外で生活した。
一年後、日本に一時帰国した際には 挙式、そして簡単なお茶菓子を用意して参列者の方々のための歓談の場を設けました。
(招待状やあらゆる準備は国際電話とfaxを通じて母に全てお願いしました。)
再びまた赴任先へ戻ってしばらく後、私は夫と暮らしていた国で両親と妹の訃報を受けました。

私の父と夫は、父が亡くなるまでの約1年半、
日本にいる時

(一時帰国した時もほぼ私の実家に泊まっていました)しか顔を合わせていません。
けれど、父と夫二人で出掛けたことも幾度かありました。
長いこと母、私、妹の中で父は男一人。
寂しい思いもしていたと思います。
短いけれど、父にとって息子ができた、そんな貴重な記憶の記録です。

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プロポーズと夫の実家への来訪

夫と付き合って一年近く経つ晩夏。
彼(後の夫)が部長面談で何か辞令を伝えられたことは

私もなんとなく察していました。

もともと、近い将来、そんな可能性があるかもしれないことは、付き合っている過程で聞いていたのです。

しばらくして、二人で会う時間がようやく取れた時、夫からプロポーズを受けました。
同時に彼から聞いたのは先日、彼が部長室で聞いた辞令について。
夫はもちろん、私も予想もしていなかった、
日本からはるか遠い、遠い国でした。
でもなぜか私は迷わず、付いていくことを決めました。
この日から夫も私も、仕事も渡航準備も含め
目まぐるしい日々を送ることになります。

「すごい!ほしまる、こんなに遠い国へ行くんだね!」
その夜、家族に伝えると 両親も妹も地球儀で改めて確認しながら、無邪気に笑っていました。
私自身も迷わず、彼についていくことを決めたけれど
今思うと、両親も妹も反対したりせず、また必要以上に不安がることもありませんでした。
(一応、危険が伴う地域とされていた)
だから私自身も、とにかく3ヶ月後の退職までに勤めあげることを視野に入れつつ、渡航、海外生活に必要な準備に追われていたのかもしれません。

よくテレビでも見る「お嬢さんを僕にください」。
夫もきちんとミッション完了しました。
夫が我が家に来て、父が場を和ませようとお酒を注ぐ前に。
「その前にすみません、お話があります。」と。
「お嬢さんをいただけませんでしょうか。」
父は微笑みながらお辞儀して言いました。
「こんな娘ですが、どうぞよろしくお願いします。」
そのあとは、母の料理を肴に、和やかに談笑しました。
母も妹も嬉しそうでしたが、父が私の想像以上に嬉しそうな表情で夫の話を聞いていたのがとても印象的でした。
あんなに美味しそうに大好きなお酒を飲む姿は
なかなか見たことはありませんでした。

知らなかった夫の覚悟

かなり後から聞いたこと。
実は、この時、夫は自分が婿養子になることを覚悟してくれていたのだそうです。

父のいた会社はもともと祖父、祖父の兄弟で創ったものでした。
しかし私自身継ぐつもりもなく、また結婚相手にも転職してもらうつもりなど全くありませんでした。

けれど、夫は義父母と話して、自身が私の実家の婿養子になることも、父からもし言われたら受けるつもりでいたと夫の口から聞いたときには本当に驚きました。
たられば表現も想像も好きではないのですが
もし、父が生きていてこの話を聞いたならなんて言っただろう。
そう思うこともたまにあります。

「たまにな、お父さん思うんだよ。
ほしまるがうちの会社入ってくれたら、うちの総務経理はもう少しマシになる気がするんだ。
それでね、ゆくゆく◯◯くん(夫)が、うちの会社に転職してくれたら、
お父さん、安心して定年迎えられる。
◯◯くんは優秀だし人望もあるからなぁ。」

亡くなる数ヶ月前に、父はこんなことを私に言っていたことがありました。
父がいた会社は、同族企業ゆえ、いろいろ人間関係のしがらみや、醜い出世争いなど小さな頃から見たり聞かされていました。

父の寂しさ、というか、本音では私(もしくは妹)か
私の夫を頼りにしていたのかもしれない。
最近特にそう思います。

父の背中

「ほしまる、まめ(妹)、生まれてきてくれてありがとう。」
小さな頃から父も母もいつもこう言ってくれました。
以前、こんな記事を書いたことがあります。

私の名前は、母のお腹にいたときの私が男でも女でも
どちらでも違和感なく呼べる名前、として付けられました。
(現に記事内にも書いたように、某有名芸能人のお名前と同じです。)
実際、女二人姉妹として分け隔てなく愛情を持って育てられました。
もともと、どちらかと言えば私は身長も高く、スカートよりズボンが好きなショートカットでボーイッシュ、
妹は身長は私より少し低めで可愛らしくて女の子っぽい感じでした。
ピンクや赤、ラベンダー色などが似合う妹と
緑、青やカーキ、黒を好んで着ていた私。

よくよく考えると、そんな私がなんで結果として女子校トータル10年なんて生活を過ごしたのか...
当時の幼なじみの男友達たちからは不思議がられたし、
夫からも未だによく笑われます。

馴染めるはずがないのです、女の園、女の集団に。
(未だに女同士のきゃぴきゃぴした感じとか馴れ合いは苦手です。。。)

でも、いくらボーイッシュでも性別上は女。
母と私、妹の三人は年齢が経つにつれ、三人姉妹のようになっていたので
父はやはり寂しかったと思います。
父の背中がだんだん小さく見えたのはきっと気のせいではなかったかもしれません。

念願の息子(夫)と父のお出かけ

結婚の挨拶に実家に来る前、付き合っていた頃から母、妹は夫に会っていたため、父はなんとなくイメージもできていた上に、夫を信頼してくれていたように思います。

というのも、父は夫を息子同様の存在として
かなりすんなりと受け入れていました。
優しい父でしたが、厳しい面も多々ある父でした。
特に私が男性と交際している時に帰宅が遅くなったり、男友達から電話が来てもすぐに機嫌が悪くなり、
自室にこもって口をきかなくなりました。

何度か交際相手や男友達が実家に来たこともあるのですが
挨拶もろくにせず、外に出ていってなかなか帰ってこない、ということもしょっちゅうでした。
「ほしまるが結婚するときは大変だね、お父さん。」
ずっと周りからそう言われてきたので私自身も覚悟していました。
ところが、夫に関しては付き合っていた頃から
父は怒ったり機嫌を損ねることがなかったのです。

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そんな、ある意味異例な夫は、父にとってはかなり早い段階から信頼されていたと思います。
そしてそんな夫に対して、父は父なりに息子のように接していました。
「ほしまるは来るなよ。男二人で出掛けるんだから。」
「はいはい。楽しんできてね。」
父はとても楽しそうでした。
夫がメガネを新しくする時も、父の長年の行きつけのお店に赴き、フレームやレンズを選びながら
店員さんと夫と談笑していました。
二人で夫のスーツを新調しに出掛けたときも
オーダーするにあたってあれこれ相談していたそうです。
「お父さんが買ってくれたんだ。」
もう着れなくなりましたが、買ってもらったオーダーメイドのセットアップを夫はとても大切にしていました。
長年、営業職だった父は、スーツには人一倍こだわっていました。
そのこだわりは、夫を通じて改めて知りました。

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父と夫の最後となるお出かけは、実家から自転車で向かったゴルフ場でした。
打ちっぱなしをしながら、途中途中いろいろ話したと聞いています。
ここには会話は書きませんが、父はふと私の(海外での生活)を案じて、夫に聞いたことがあるそうです。
両親、妹の死後 夫からそのことを初めて聞いた時には、改めて色んなことを悔やみました。
私自身、家族を救えなかった後悔というのは、恐らく私がこの世から消える時までずっとずっと残ります。
と同時に、恐らく夫も家族として母や妹、そして父との記憶、彼なりの思いはずっとずっと残るのかもしれません。

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あとがき

ここに書いたのはほんの一部ですが、父の日を迎えるに辺り、父と夫の思い出を書きました。
ここまでお読みいただいた方、ありがとうございます。
たまに、ふと食べたくなるものがあります。
それは吉野家の牛丼。
父との思い出深い食べ物です。
一時帰国の際、スケジュールの都合で夫が先に赴任先へ戻ったのですが。
成田へ向かう数時間前に父がいつの間にか自転車で出掛けて帰って来てもっていたのが
吉野家の牛丼でした。
「◯◯くん(夫)、食べたいと思ったから。」
海外生活を経験すると、日本にいたら別に特に好んで食べないようなものでも
無性に食べたくなる。
そのことを父は、私を通じて理解してくれていました。
美味しそうに牛丼を頬張る夫。
その時、嬉しそうに見つめていた父の瞳を今でもしっかりと覚えています。
もうすぐ夫の誕生日。
誕生日に牛丼、ではないけれど
近々、夫と久しぶりに吉野家の牛丼を食べようと思います。

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#家族の物語


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ほしまる
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