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世界の裏側がなくなる日まで、私は友達を作り、ことばを学び続ける。

写真: スターバックスなどで買ったものでブレークしているとき

世界の裏側は、残念ながらたしかにある

地球は丸いのだから、世界に表も裏もないじゃないかと言うひともいるが、私はそうは思わない。

たとえば、フランスでテロがあって10人殺された場合と、エチオピアでテロがあって10人殺された場合、世界(ここでは「欧米」や自らが所属している日本社会のこと)がニュースにしたり騒いだりするのは明らかに前者のほうだろう。

「乗客に日本人はいませんでした」

たとえば、日本において日本人が飛行機事故に遭ったということはニュースになるけれど、そこに5人の日本人と100人の外国人がいたとしたら、前者のほうが取り扱いが大きくなるだろう。

こういったことを語るときにほとんど毎回引用される(と私が勝手に思っている)JAMというThe Yellow Monkeyの曲の歌詞を載せようと思う。

あの偉い発明家も
凶悪な犯罪者も
みんな昔子供だってね
外国で飛行機が墜ちました
ニュースキャスターは嬉しそうに
「乗客に日本人はいませんでした」
「いませんでした」
「いませんでした」
僕は何を思えばいいんだろう
僕は何て言えばいいんだろう
こんな夜は
逢いたくて
逢いたくて
逢いたくて
君に逢いたくて
君に逢いたくて
また明日を待ってる

日本人だけを気にかけるのを責めたいわけではない

「世界」の偏り方は、数の問題ではない。

そこに巻き込まれたひとと自分とのコネクションがどう存在するかだ。

私はこういった偏りを責めたいのではない。

エチオピアのひとやフランスのひとのことを考えないあなたは地球市民として失格だ! 第二次世界大戦から何も学ばなかったのか! 行き過ぎた愛国心や自己中心主義や、自民族中心主義はナチスドイツや大日本帝国のような破滅を導く!

そんなことを言いたいわけではない。

日本に住んでいる日本人にとって、たいがい日本人が巻き込まれたかどうかのほうが重要になるのは納得できることだからだ。

縁もゆかりもない国のひとのことも考えてください、と誰かが言ったところで、どうしても関心が向きづらいところはある。

そこで私が言いたいのは、「世界の裏側」やテレビの画面の範囲外にいるひとについて、たとえばニュースを聞いたときなどにすこしでも思い出して思いを馳せてほしいということ、そして自分が世界だと思っているものや自分が見ている世界にはどうしても「偏り」があることに気づいてほしいということだ。

「世界がひとつになれば良い」という身勝手で傲慢な主張

「世界がひとつになるまで」という合唱曲がある。

世界がひとつになるまで
ずっと手をつないでいよう
あたたかいほほえみで
もうすぐ
夢が本当になるから

こんな歌詞の曲で、私も小学校のときに歌った。

世界から争いや悲しいことが消えて、みんなひとつになればいい。

貧しいひとには豊かなひとが分け与えて、武器を捨てて、みんなで楽しく幸せで平和な社会をつくっていこう。

争う理由なんかない。みんなが平和を求めている。

だからそれに向かって進んでいけばいいはずだ。簡単なことだろう?

そう心から思っていたし願っていたが、それはひどく傲慢な主張であるように思う。

「世界をひとつにする」という主張は、統一教会(世界平和統一家庭連合)が目指している社会と、本質的には変わらない

「世界平和統一家庭連合(統一教会)」という団体(私はカトリック教徒として、あれを「宗教」とは呼びたくない)があるが、彼らの言う「統一」とはどうやら朝鮮半島を統一するという意味ではないらしい。世界中の宗教を統一教会に統一しようというのが、彼らの思惑らしい。

私は詳しくなくてちょっとネットの隅で聞いただけなので、間違っていたら素直に訂正してほしいが、もしそれが本当なら、彼らはすごいことを勧化ているなあ、とあきれてしまう。

他人の信じているものを否定したくはないが、それを別の他人に強制するのは不幸しか生まない

一応言っておくが、私は個人がどんなものを信じていたって、それでそのひとが幸せになれるなら良いと思っている。私の友達にはエホバの証人を信じているひとや、末日聖徒イエス・キリスト教会(いわゆる「モルモン教」)を信じているひとがいる。彼らは自分の信じているものを持てて幸せだといつも言っている。それを私が止める権利はないし、それは誰にもない。

ただ、それを他人に強制したり、多額の金銭的負担を強いられた結果他人が不幸せになったり、あるいはオウム真理教やタリバンのようにテロや殺人を起こしたり、そういったことを否定したいだけだ。

宗教をひとつにした世界は、ほんとうに理想的で平和なものなのだろうか?

話を戻そう。

世界にはイスラム教徒もキリスト教徒も仏教徒もヒンドゥー教徒も、その他たくさんの宗教がある。そしてそれに救われているひとがたくさんいる。もちろん、無神論者もいるし、「宗教」とされていなくても自分だけの支えを持っていてそれに救われるひともたくさんいる。たとえば「推し」という文化で救われたひとも少なくないと思う。

それをまとめてひとつの宗教にするというのは、たとえそれがカトリックのような「まともな」宗教だとしても、それは大いに間違っていると私は思う。

人間はひとつの同じものを信じることはできないが、それで構わない

宗教では人間はひとつの同じものを信じることはできない。

それで良い。

それが宗教戦争などにつながらない限り、そうして血が流されない限り、それで良い。

イスラエルとパレスチナの関係を見ていると、宗教の共存は難しいということがわかる。

ただ、たとえばパレスチナでもユダヤ教を信じなさいとしたり、イスラエルでもイスラム教を信じなさいとしたりするのは、絶対に間違っている。

「世界をひとつにする」と言うなら、プーチンさんの主張やボコハラムの主張をも擁護するのか?

また、たとえば日本で民主主義と男女平等の世界に住んでいることが当たり前だと感じている私達が、「西洋の教育は罪」だと叫ぶボコハラムの主張などわかるわけがないだろう。少なくとも私にはまったくわからない。

ボコ・ハラムは西洋式教育だけでなく西洋文明、現代科学、特にダーウィン主義を攻撃している。さらには異教徒だけでなく、過激思想を受け入れないムスリムも攻撃対象としており、ナイジェリア国内のモスクに対してもテロを引き起こす事がある

これはWikipediaからの記述だが、イスラム過激派(平穏なイスラム教とは違うテロ組織)だって理解はできないと思う。

あるいは、プーチンさんがウクライナを攻撃している理由だって、もしくはハマスがイスラエルに攻撃した理由だって、さらに言えばイスラエルがガザ地区を攻撃している理由だって、正当化されるべきものでもなければ、共存できるものでもない。

それを社会の中に統合してしまうと、あらゆる殺人が正当化されることになる。

「あなたはパレスチナ人だから、殺されて当然です」

「あなたは正教会の教徒なので、殺されるべきでしょう」

などと言われてしまう社会が、「世界をひとつにする」ということが実現し、それが悪用された社会だ。

戦争と呼ばず人殺しと呼ぶ理由

戦争などと言うからかっこよく聞こえてしまう部分があるから、私は「戦争」とは呼びたくない。正義のために起こす戦争といったコンテキストが含意されている場合もあるからだ。

彼らがやっていることは、人殺し以外のなにものでもない。

なぜ私は人殺しや戦争に反対するか、それは美味しいものが食べられなくなるから

人殺しはなぜ悪いか?

それは、殺されたひとは(少なくともこの世では)美味しいものを食べることができなくなるし、その遺族だって深い悲しみに包まれるために食事を美味しく食べられなくなるからだ。

「戦争」はなぜ悪いか?

それは、戦争に向かって国が進んでいくときに、必ず一般市民は美味しいものを食べられなくなるからだ。食事は単に生きるために必要とするカロリーを補うための手段でしかなくなり、大概それは平常時なら口にしないような不味いものばかりを食べることになる。たとえばバッタを食べた私の親族や、ソテツを食べた奄美地方のひとたちのように。しかも、彼らが食べるのは、食事を楽しむためではなく、ただ生き延びるだけのために。

それが私の殺人や暴力を反対する理由だ。

もっと長く書いた記事があるので、よかったら読んでほしい。

「世界の裏側」がなくなるためには

世界の裏側をなくすために、一番簡単な方法は、世界中にお友達をつくることだ。

そして、ことばを学ぶことだ。

ウクライナの同僚や友人達が、私に新しい「故郷」をつくってくれた

私にはウクライナで働いている同僚がいる。私の会社はウクライナにある。

お友達もたくさんいて、いまは魅力的なプロジェクトが動き出そうとしている。

それがうまくいけば、日本からウクライナを支援することにつながるようなプロジェクトだ。

そういった優しい同僚や親切なお友達がウクライナにいる限り、私にとってウクライナは「世界の裏側」などではない。

言葉もほとんど話せないし、行ったこともないのだが、私にとってそこは「故郷」とも呼べるようなあたたかい場所だ。

渡航できるようになったら、同僚や友達に会いに行きたい。

そのために、ウクライナ語を勉強している。

イスラム教は遠い存在

私には、イスラム教徒の友人がいない。イスラム教を信じているひとが多い国からの友人もいない。

それは「クリスチャンにイスラム教徒の友人など不要だ!」という醜い思いなどではなく、ただ単に機会がなかっただけだ。

日本人にとって、「世界」と「欧米」は同義だし、「欧米」と「キリスト教世界」も同義だ。

私がヨーロッパを好きな理由

そして、私はひとつの国がそれぞれ固有の文化を持っていて、しかもそれが多様に混ざりあっている、ヨーロッパに強く惹かれる。

たとえば、スラブ系の言葉であるチェコ語を話すチェコから1時間しか電車で走っていないのに、着いた先のオーストリアではゲルマン系の言語のドイツ語が話されている。

チェコにはチェコやスラブの豊かな文化があり、オーストリアにはオーストリアやゲルマンの豊かな文化がある。それが非常に近い距離で互いに息をしていて、その呼吸が混ざりあったところに「ヨーロッパ」がある。

そういった世界を、私はとても夢見てこがれてきたのだ。

イスラム教の友人を作りたい

話を戻そう。

イスラム教のことはほとんど知らないし、クリスチャンからしたら怖いイメージしかない。正直に言ってしまうと。

こういったニュースばかり見ていると、怖いなあと思ってしまう。

そして、私はこのニュースを聞いてから、インドネシアに行くことはないだろうと(少なくともいまのところは)考えている。

下手したら禁固2年になってしまうような国で、生きたり旅行したり暮らしたりといったことはしんどい。

ただ、インドネシアやイスラム教の友人を作りたいとは思っている。

そういった機会があれば、私はもっと良く彼らのことを理解したいと思う。

先ほど書いた以下の文章をもう一度貼る。

そして、私はこのニュースを聞いてから、インドネシアに行くことはないだろうと(少なくともいまのところは)考えている。

「少なくともいまのところは」というのは、当然これから変わりうることだ。

世界の壁は言葉の壁

そして、「世界の裏側」をなくすために大事なのは、言葉を学ぶことだ。

たとえば、中国語を学ぶと中国のことがよくわかるようになるし、フランス語を学ぶとフランスのことがよくわかるようになる。

たとえば、すこしでもドイツ語が話せるとしたら、もうドイツとドイツ語圏は、「世界の裏側」ではなくなる。

ドイツはあなたの故郷になる。

逆に、その国の言葉がわからなかったり、その国やその国のひととコネクションがなかったりすると、そこはいつまでも「世界の裏側」でしかない。

だから、ひととおりヨーロッパの言語を学び終わったら、次は自分が生まれ育った日本を含む地域であるアジアの言語を学びたいと思っている。

そうすると、アジアも私の故郷になるだろう。

留学資金などに使います。ご支援よろしくお願いします。 また、私が欲しい本を集めたほしいものリストも公開しています。 https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/9WBR0K7KWYX8?ref_=wl_share/