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幸せになるのはこんなにも簡単なのに、ひとはなんて遠回りをしているのだろう。

今日、長く闘病していた若い子が死んだとTwitterで見た。

Twitterでそれを見たひとは、しばらく経てばそれを忘れて、また他人を傷つけたり中傷したりとくだらないことをするようになるのだろうか。親しかった友人もそれを忘れて、意味のないことに時間を費やして、またいのちを無駄遣いするようになるのだろうか。

ひとが死ぬ、ということがあまりにも軽く扱われている。

昔どうだったかは知らないが、ひとのいのちってこんなに適当に扱われるんだなあ、と思うことがある。

世界のどこかが戦場になって、ひとが死んでも、画面の向こうの私達は、なにもしないで傍観しているか、なにもできない無力感をひしひしと味わうことになる。おとなたちはなにも動こうとしない。指一本動かさないどころか、こころを寄せ集めることさえしない。世界中が結束して戦争に向き合えばいくらでもうまくいきそうだと素人には思えてしまうが、結局誰もそれができていない。自民族中心主義、人種差別、偏見、加害者への援護といったいろいろなものをTwitterでも現実社会でも見ることができる。運動会で「私達はひとつになって頑張ります」なんて言うが、そんなことはできない。不登校のこどもや、長時間労働で疲れ果てているおとなや、集団主義が気持ち悪いとなじめないひとたちを結局包含できずにいるのだ。「みんな」とはマジョリティーの同義だ。マイノリティーはいつだって見放される。たかだかひとつの学校もまとめられないようなそんな非力な私達が、世界をひとつにしようなんてそんな無意味なことを語る資格はない。

世界のどこかで災害が起きても、誰もすぐには駆け付けない。1980年のイルピニア地震の救援活動の初動が遅れたために、イタリア政府は反省して、市民保護局(Protezione Civile)を作ったが、結局イタリアの初動はいつだって遅れているといえるかもしれない。そしてなにより、その後政府は何度となく市民を見捨ててきた。「あなたたちをひとりにはさせません(Non vi lasciamo soli)」と2016年のイタリア中部地震の際の首相であるレンツィさんは言ったが、仮設住宅(SAE)がいまどれだけ残っているかを考えれば、その言葉が嘘であったというか、結果的に嘘になったということは誰にでもわかる。そしてこれを書いている私は大学生なので、世界のどこで災害が起きても、ボランティアに行く余裕などなく、結局大学に通い続けることしかできない。そしてテレビの向こうでリモコンを握りしめることくらいしかできない。この手の小ささをいつも呪っている。

世界がひとつになる日など来ない。それがあるとしたら、人類が滅亡するときくらいではないだろうか。2人でさえひとつになれないのに、世界の80億人をひとつにしようなんて語るのはばかげているとはいわないが、到底無理な話だろう。

誰かが死んで、その誰かの机の上に花が置かれても、どうせクラス替えでも起きたら忘れられてしまう。私の住んでいる地域で交通事故があったから、その現場にはいつも遺族のひとが花を手向けているが、その花が途絶えるのは、その遺族のひとが亡くなったときか、故人が完全に忘れ去られたときだろう。

私達は愛されて生まれてきたわけじゃない。男と女が性的な関係を持てば、いくらかの確率でこどもが生まれる。それだけの話だ。愛はいつだってあとから添付される。ときにその添付ファイルが届かなくて、コインロッカーやごみ箱に捨てられるか、虐待されるか、児童養護施設で育つ。児童養護施設は悪い場所とも良い場所とも言いたくないが、部外者は黙ってろと言われそうな気配を感じつつあるが、とにかく、愛なんてものは事後に起こるか怒らないかといったものであって、出生そのものが美しいものではない。親が一瞬の判断でこどもをトイレに流したら、それでいのちは終わる。なんて軽いものなんだろう。

なんらかの偶然が働いて、成人を迎えるまで生きられた私達は、今日もまた無駄なことをして過ごしている。勉強も仕事も娯楽も、いのちということから逃げるための手段なのであれば、それは本質的にいのちと向き合っていない無意味なことだといえるかもしれない。

私達はなぜ生まれてきたのか、それはさっき言ったように、両親が性的な関係を持ったその結果としてのものだ。そこに愛を加えるか加えないかは、家族とあなた自身次第だ。私は幸いにして、両親から愛されて生まれてきて、その結果としてひとにやさしくなれた。神様から受けた愛に引っ張られて、あした洗礼を受ける。それもまた、私を、人生を、ひとを、もっと愛せるようになるためだ。

私達は、なぜ生きているのか。自殺を選ばずに生きているのは惰性なのか、それとも死ぬのが怖いのか、それとも自分の意志なのか。そういったことを考えないで生きている人生は、嘘と欺瞞に満ちている。いまが楽しければそれでいいといった考えでは、いつか生きていけなくなる。結局、私達は親の半ば身勝手で自己中心的といえる行為から生まれてきたとしても、自分の言葉で自分の人生を説明できないといけないのだろう。私はなぜここにいて、ここにいたいと思うのか。それは単なる惰性では説明できないなにかであるはずだ。そうでなかったら、生きていくのがしんどくなったときに、困ってしまう。

ひとが幸せになるのは、美味しいものを食べるだけでいい。そして、なるべくそれを好きなひとたちと食べて、そしてそれを美味しいと思えるこころがあれば、きっと人生はいくらでも素晴らしい側面を私たちに見せてくれるだろう。

それは、あくまで私の幸せといったところだ。あなたにもそういう「あなたの幸せ」がたくさんある。

それなのに、私達は幸せをいつだって探している。遠くに行ったり、自分の奥を隅々まで探したり、不必要にいろいろなひとと繋がろうとしたり、承認欲求を一時的に満たす手段を見つけたからといってそれを乱用したり、他人を試したり、自分を裏切ったりしている。それでも見つからない、もっといいところに行きたい、もっと愛してほしい、もっとこれがほしい、もっとこれを手に入れたいと、いつまでも探し物をしている。そして彼らは、近くを見ても遠くを見ても、それを探せずに、「これじゃない」「これでもない」を繰り返している。

幸せになるのは、ほんとうに簡単なことだと思う。もちろん、どう頑張っても幸せになれないと思えるような環境はいくらでもある。たとえば、シベリア抑留のラーゲリや、アウシュヴィッツ強制収容所などの絶滅収容所で、誰だって幸せに生きられる、だからあなたも幸せになれなんて言うほうが無理だろう。そういった話ではなく、あくまで現代の日本という最低限の生活が憲法25条で保障されていて、戦争中ではなく、大きな災害も自分の身の回りで起きていないという大前提のもとにこの記事はある。この記事を読んでいるひとが被災者だったりすると話は変わってくる。その場合は、とにかくメンタルヘルスとからだの健康を大事にしてねという月並みなアドバイスしかできない。

幸せになりたい、といっているひとは幸せになれないが、それでも幸せになるポテンシャルはある。いちばん怖いのは、幸せになることを諦めてしまっているひとたちだ。こころを病んでしまって、自分には幸せになる資格なんてないと思っていて、私が死ねばよかったと思っているようなひとたちだ。この場合も、メンタルヘルスとからだの健康を大事にしてねとしか私は言えない。

美味しいものを食べて、幸せになる。それだけのことを、いま私にしてあげよう。私には幸せになる資格があるのだから。幸せになることは権利なのだから。

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