生きる意味について。 生きることと死ぬことは、人間として生まれてそれなりの年数生きていれば意識してしまうことだと思う。それゆえに、よくある質問として「生きる意味とは?」ということが言われるわけである。 哲学はもちろん、多くの芸術において表現しようと試みられてきたと思うと果てしないので、どれほどの先人たちがそれぞれ答えを出してきたのかということは置いておく。 では、生きる意味とは何かについて自分なりに答えを出してみたい。そこでいくつかの考えを出しながら、自分の考えを
6月になってしまった。なぜ「なってしまった」なのかは明らかである。そう。梅雨である。 しかし、すでに6月は後半を過ぎている。梅雨と言うには流行を過ぎてしまっているだろう。今年は梅雨入りが遅かったためにまだ梅雨ではあるものの、夏らしい一面もちらちらと見え隠れしている。梅雨のことをいまさら言うのも馬鹿らしいのかもしれない。(ここ数日激しい雨もあるので、セーフかもしれないが。)「雨」という概念はかなり好きな部類に入るのだが、実際の雨は気圧の問題や行動のしにくさがあるため、好きに
6月が近づいてきた。 ニュースでは台風の発生も報じられていたこともあり、雨の日も増え始め、梅雨の気配が見え隠れする。 じめっとした空気は肌につく感じがどうも好きにはなれない。加えてこの微妙な暑さ。もううんざりしている。とはいえ、多くの雨は夜には止んでくれていることもあり、ひんやりと涼しい寝心地である。これは嬉しい。 最近の天気としてはこういった感じだが、ヒトトギスが思ったのはこれらのことについてではない。また、空についてである。 数日前(先週頃)には満月で、
感情を出したがる、表現したがる存在。それが自分であると感じることが最近増えている。職場でそれなのは本当にまずいと思うが、それもヒトトギスなので、これとどう付き合っていくかが問題だろう。 少しずれる話かもしれないが、好きを伝えることは難しいと感じる人が多いと思う。実際、難しいことだと思う。 「ありがとう」「ごめんなさい」が言えることが人間として重要だというが、「好き」になった途端に難易度は跳ね上がっているように思う。 ヒトトギスの場合、割と言ってしまう。言ってしまう
読めばいいだろうと思う。自分でも、強く。しかし、端的に言えば、仕事のインプットで手いっぱいである。 一応、教える立場にある関係で、文章に触れる機会も多く、本を読むことを奨励することも多々ある。これまで蓄積してきた引き出しの中身を少しずつ放出しているつもりではあるので、今のところは話しのネタが尽きるとかいったことはまだ起こっていない。 ただ、単純に新しい物語を読みたい自分と読む気が起こらない自分がけんかをしているだけにすぎないということだろう。 覚えることと言った
1 小説を書いてみたかったので、少し頑張った。 小説を書きたいと思ったのは、作った曲が思ったよりも含みのある歌詞になり、解釈次第ではいろいろな側面を持つものだったため、これは自己満足のために物語にしたいということがあったためである。 ただ、小説を書くということが難しいことくらいは素人にもわかる。ノウハウを調べるということもしたことがなかったし、頭の中で妄想に耽るということはあっても、それを文章化することはなかった。 書こうと思って少し書いて、書ききることは結局でき
夜の不思議な感情について。 1. 不思議なもので、夜はどこか虚無がある。 寝てしまえばそんな不安はなくなってしまうということはもちろん承知の上で、寝られないというわけでもないのに、しょうもない情報を浴びて、30分、1時間と時間を消費してしまっている。依存症だよ、と言われてしまうともう何も言えない気もするのだが、しかしこの感情は何かで誤魔化さないといけないように思えて、幾度となくこんなことをしている。 少し前の記事に書いたように、これはヒトトギスが知らないだけで
ハラスメントについての話が含まれます。少し嫌な話をするので、ご注意ください。 1 気づかないことは、生きていれば結構ある。 情報の多いこの時代、いろいろなことに心のリソースを割いているともたない。疲れる。気づかない力は必要とされているのかもしれない。この力は鈍感力、という言い方がされることもある。 そして、ヒトトギスはこの鈍感力というものが結構あるタイプだと思う。 鈍感力は一方で、何か大きな見落としを起こす場合がある。当たり前だ。気づいていないのだから、本人に
1 影響を受けることについて。 少し前に読んだ2冊の本が偶然にも「人は変われる」ということと、「人は変わらない」ということをそれぞれに書いていて、解釈によっていろいろ考えられるよな、と思った。そして、ふとこの話題について考えようという気持ちになった。 端的に言えば核は変わらないし、変えられない…いい意味でも悪い意味でも。そして後天的なものは多くが変えられる。少なくともヒトトギスはこう考える。 時間がかかることやかからないこと、例外的な事柄もいくつもあると思うが、端
1 『山月記』について。 『山月記』といえば、学校で取り扱われることも多く非常に馴染みのある作品かと思う。李徴が虎になってしまうというあれのことだ。インターネットでもよく「その声は、わが友李徴子ではないか?」がなぜかよく見られる。おそらく『少年の日の思い出』のエーミールと同じような立ち位置なのではないかと思う。 習った当時も面白いなと思っていたし、印象深かった。その後とある機会に学んだ新しい視点のおかげもあり、『山月記』がいろいろ考えられる作品であることが感じられ
思考することについて。 思考するとは、そのまま言えば「思い、考えること」なのだろうが、最近ちゃんと思考することができているだろうか、と思考したので、今回はこの話題にしてみた。(なんて回りくどい文章。) インターネットに浸かる日々を送っていると、その情報量に気付かぬうちに溺れている…なんてことはよくある。立ち並ぶニュース、誰かが常にやっている配信、ゲーム、SNS…画面の中には魅力がたくさんである。もちろん、その質は幅が広い。 これだけ質の良いものも悪いものも蔓延る世
自画像について。 自画像とは、もちろん自分自身を描いたものだ。親類に絵を描く人がいるため、自画像がどう書かれているのかということはうっすら感覚がある。そのため、単純に今までよく描かれてきた自画像について話そうと思うと難しい。 今回なぜこんな話題について書いているのかというと、儒烏風亭らでんさんという方が「Vtuberは新しい自画像だ」というようなことをとある配信で言っていたからだ。 確かに、と思った。なりたい自分、自分に近い、けれどどこか違うアバターによって自分を
何かに興味を持つことは、結構大事なことだ。それは人とのコミュニケーションにおいても、物事においても同じように言える。 例えばヒトトギスの場合、厄介な性格をしているのでなかなかおすすめしてもらったものに興味を持つことをせず、自分から得たものでないと…という謎のプライドを出してしまう。最近はこれも減った方だとは思うが、これは非常に損をしている。 友人が好きになったものであれば、その友人が好きになった理由があるのだから、もし自分に響かなかったにしても、どこかに魅力があると
自分の聴いてきた音楽の履歴について、何年か前に振り返ってみたことがある。その時はバンドばかり聴いていたのだが、改めて振り返ってみることにする。 小学生くらいの頃は割と何でも聴いていたように思える。ラジオを聴いていたこともあって、流行の邦楽、一部の洋楽は知っていた。ただ好んで聴いていたのは邦楽で、当時もバンドを聴く傾向があった。ちゃんと好きと言えたアーティストとしては、SPYAIRやBUMP OF CHICKENがある。CDが残っているのはその二組だ。前者であれば「虹」「
読書について。 『枕草子』を読んだ、という話を先日書いたが、これは外的要因があったため読んだということであって、最近読んでいるのは古典作品ばかり…というわけではない。(ただ、『落窪物語』をちゃんと読んだことがなかったことに気づいたので、読んでおきたい気持ちはある。)どちらかと言えば一般文芸の方が多く、たまに評論も読む。ライトノベルは数年前は大量に読んでいたものの、最近は読めておらず、悲しい。 そもそも作業でPCの画面を見て、休憩のつもりで本を読んでいては目や頭が疲れる
使う言葉の傾向について話そう。 使う言葉にはその人の育った環境や得てきた知識、そして現在の状況が反映されると思っている。これはきっと口にしないだけで誰もが思っていることだとも思う。 自分の曲を作りたいという気持ちが明確になったのはここ数年だが、ふわっと自分の曲を作ってみたい気持ちはどこかにあって、ずっと歌詞(メロディーは残していなかったが)をメモに残し続けていた。 それを見返すと、ここにはやはり、自分が歩いてきた道のりが見える。好きなバンドのオマージュであったり、当